ゴッホゆかりの街
1998年6月14日
ナイロビからアムステルダムに着いたのは夜の8時過ぎだった。しかし、まだ明るい。明るいと、宿を探すのも気分的に楽だし安全だ。アフリカとあまりにも違い驚くばかりだ。
夜遅く、出迎えもなく、当てもなく、一人で空港に着く事ほど心細い事はない。見知らぬ土地だし、言葉も通じなく、友もいない。出迎える者もいない。そういう時は朝が来るまで空港から出ない事、それが旅の常識だ。しかしまだ外は明るく、人々が歩き回っているので宿を探す事にした。
空港のツーリストインフォメーションで、一泊1万円くらいで町の中心にある宿を当たってもらった。係員は感じも良く、対応がアフリカと違ってスピーディーだ。コンピューターで探してくれたのは、中央駅のすぐ近くのボートハウスだった。その名も「アムステル・ボーテル」。彼女は地図に場所を印してくれた。デポジットと手数料を払い、空港から中央駅行の電車に乗った。
肩のリュックサックを床に降ろし見回すと、ドアの所にトランクを持った紳士がいたので、聞くと「私も中央駅で降りるから着いたら教えてあげる」と言ってくれた。これが東京だったら、ソッポを向かれるところだろう。
電車が中央駅に着くと、紳士が身振りで着いて来いと言うので後からついて行った。駅を出てから少し運河の方に歩き、彼は「あれがアムステル・ボーテルだよ」と指さして教えてくれた。200メートルくらい向こうに白い建物が見え、「アムステル・ボーテル」という看板が見えた。「サンキュー」と言うと、その頭の禿げた少し太めの紳士は笑って去って行った。こんな時は人の情が身に染みる。リュックサックを肩に歩き始めた。
建物と見えたが、着いてみるとそれは岸に舫った大きな船だった。タラップを踏んでレセプションに行き、空港のインフォメーションで持たせてくれた書類を受け付けの女性に渡した。
130ギルダーを払い部屋に行った。私の部屋は343号室だった。ドアにカードを差し込むとロックが解除される。中に入る。船室みたいだ。清潔でキレイ!船だから当たり前だが、窓からは広い水面と対岸に舫った船が見える。シャワールームも付いていた。
荷物を放り出し、ベッドにひっくり返って天井を見つめた。長い旅だった。疲れた。
暗くなる前に、近くのレストランに行き夕食した。シュニッツェル(トンカツ)とフライドポテト(チップス)、それとビール。全部で24ギルダーだった。物価は日本と変わらない感じだ。金がどんどん消えてゆく。
運河に沿ってホテルに戻る途中、例の「飾り窓の女」というのを見た。ショーウインドーの中に、下着姿で座ったり、横になっている。あっけらかんとしていて、セクシーという感じはしない。ここは昔から港町として栄えた所だ。その筋の女性が多いのは当たり前。船乗りに港の女は付き物だろう。若い一人の男が中に入って行った。ショーウインドーにカーテンが引かれた。この町の一つの顔である。
ホテルに帰って時計を見ると10時を回っていた。ちょうど暗くなった。朝は5時頃から明るくなり始める。夜が短いせいか、アムスっ子は私の見てる限りではよく遊ぶようだ。何とはなしに一日をブラリと過す人が多い。旅行者の姿も多い。
熱いシャワーを浴びてからベッドに入り眠った。
1998年6月15日
朝の8時頃にホテルを出て近くの店へコーヒーを飲みに行った。
駅の前に、1629年創業という古いカフェがあった。コーヒー専門店である。豆を挽く機械も置いてある。エスプレッソで、香りも味も他の店より美味しかった。お代わりをしてスケッチをした。開いたドアの外に緑の木立と駅が見える。
少し大柄なオランダ美人が店をやっていた。旦那と2人でやっている店、そんなに忙しくない店で、静かな落ち着いたムードだった。床も壁も天井も、椅子もテーブルもカウンターも全て木で作ってある。
午前中、空港に行きリコンファームの手続きを済ませた。(リコンファーム=予約確認)
町に戻り、ブラブラ歩いて行くとダム広場に出た。旅行者や若者で一杯だ。国立ミュージアムを探したが分からなかった。
運河を歩き回って、写真を撮ったりスケッチしてるうちに夕方近くなって、ホテルに戻った。途中でサンドイッチとビールを買った。
自分の部屋で熱いシャワーを浴びてから、ワールドカップ戦をテレビで見ながらビールを飲み、夕食に帰りがけに買ったサンドイッチを食べた。
8時を過ぎても明るい。窓辺から運河のスケッチをした。
17世紀創業のカフェ
1998年6月16日
朝、再びあのカフェを訪ね、コーヒーを飲んだ。描いた絵を見せると、店の主は「とてもいいね」と言って、記念に店の写真を一枚くれた。カフェ「カルピスーク」という店(創業17世紀)だ。
ホテルでも最初部屋を借りる時、5日間と言ったら5日間は無理だと言われたが、描いた絵を見せたらスタッフの青年と、もう一人の女性は丁寧に私の絵を見て「とても素敵だわ。何とかするわよ」と言って、一番素敵な景色の見れる部屋に5晩泊まれる事になった。
オランダ人は絵がとても好きなようだ。なにしろ、ゴッホやレンブラントやフェルメールその他、数多くの画家を輩出した国だからそれだけの事はある。
コーヒーを飲んでから、歩いて国立ミュージアムに行った。探しあぐねて、途中で会ったお巡りさんに聞くと地図を出して教えてくれた。地図を返そうとすると、持って行きなさいと言われた。ありがとうと礼を言って、教えられたとおりに歩いてゆくと、国立ミュージアムに着いた。
11時を少し回っていて、お腹も空いてたので館内のレストランで昼食。セルフサービス式で、自分で好きなものを取り、最後にカウンターで支払い、自分のテーブルに運んで食事する。ビールと、ハムのサンドイッチ、それにサラダを一皿取った。このサラダはオリーブと丸いラッキョウと赤い豆とキノコの酢漬けのようなもので、美味しかった。
お茶を飲んでゆっくり休んでから見学に取り掛かった。広いから全部回るのは大変だ。私は絵に絞って、レンブラントを中心に見て回った。それでも、ホテルに帰り着くともう4時近かった。
熱いシャワーを浴び、昼寝。起きてから絵の仕上げを夜の11時くらいまでやった。食事は帰りに買ったサンドイッチとビールで済ませた。
絵を愛する市民と美術館
1998年6月17日(晴れ)
7時頃起きて支払いを済ませ、カルピスークにコーヒーを飲みに行った。一度戻ってからデイパックにカメラとスケッチブックを入れて出かけた。
今日はビンセント・バン・ゴッホの美術館に行く事にして歩いた。国立ミュージアムの近くにあるらしかった。ミュージアムまで行き、通行人に聞いて道を教えてもらった。オランダ人は親切に道を教えてくれる。
館内は結構混んでいた。館内にある立派なレストランで紅茶を飲んで、タバコを吸って休んだ。 ホテルからたっぷり2km位は歩いた。
2階にはゴッホのオランダ時代の作品があった。色調は暗い。南仏に移ってからのゴッホの作品は明るい。ガラリと絵が変わる。しかしながら、この当時パトロンを持たない画家は(金持ちを除いて)命がけだったと思う。自由に絵を描く、自己に忠実に生きる、ゴッホの作品からはそういう情熱が伝わってくる。彼と同じくらいの力量の無名画家は他にもいたのだが、ゴッホはその生き方において情熱的で悲劇的であった。そして早くに夭逝している。そういう要素も、人々を惹きつけるのかも知れない。
自分の絵が、後年このような形で世界中の人々に愛されるようになるとは、生前の彼は夢想もしなかったであろう。ロクに絵も売れぬまま、(世俗的な)成功もせずに終わった不運の画家であったし、その意味において近代の代表的な画家とも言える。多くの画家、忠実な人間の運命を代表する画家であったゴッホ…。成功する事なく、貧しく終わる。それが大半の実存的画家の運命なのだ。貧しくある事に、世に認められぬ事に耐え切れず、画家を断念してしまう者のなんと多い事か。
ゴッホは私に勇気を与えてくれる画家である。私は他人事と思えず、胸に手を当てて一人ゴッホ美術館を後にした。描き続ける勇気を与えられた。
風が吹き、プラタナスの葉が舞った。運河の水面にさざ波が立ち、映っていた建物の影が消えた。木の葉を通して降り注ぐ日差しの下を歩き、疲れると岸辺のベンチに腰を掛けて休んだ。自転車に乗った人々が次から次へと通り過ぎて行く。
鞄からスケッチブックを取り出し、ペンを素早く走らせて線を重ねる様にして描いた。ペンは消せないからしくじれない。昔は、しくじったらと思うと緊張したが今はそんな事はない。見たものが自ずから線になってゆく感じだ。もどかしいような気持ちでペンを走らせる。水の上の光の散乱。船の優美な線。運河に沿って建ち並ぶ昔の建物。どれをとっても私を夢中にさせるものがある。
夢中で絵を描いていると、向こうから色の黒いアラブ人の3人連れの若者がやって来た。二人は私に駅に行く道を訊いた。普通ならこの二人に気を取られて、もう一人の動きに気が付かない。彼は足元にあったカバンを足で隠した。しかし私はアフリカで十分鍛えられていたからすぐに気づき、何気なく自分のカバンをゴミ箱の影から取り戻し、相手がスリである事を知らぬような顔で道を教えてやった。こっちも役者、向こうも役者をやって、何事もなく笑いながら別れた。油断はできない。
少し歩いて行くと、橋の所で若い男がギターを弾き、歌っていた。ドノバンの歌。ずいぶん懐かしい。私は彼にコインを渡し、歌を聞きながら、橋の欄干にスケッチブックを置いて描いた。今度はデイパックは肩に背負った。ここは人通りも多いし安全な感じだ。
途中で買い物をし、ホテルに戻ると5時近かった。熱いシャワーを浴びて遅い昼寝をした。起きてから再び絵の仕上げに取り掛かる。腹が減ったので、買ってきたピザを食べた。
夜、船の中のバーに行き紅茶を飲んだ。いつも客は数人いるだけで、英語ができるオランダ人の女の子が一人でやっている。ジュークボックスが置いてあり、いい曲がいつも流れている。窓の外は運河で、ボートが行ったり来たりしていてそれらを眺めているだけでも飽きない。愛想の良い子で明るい。絵を見せてやったら「うーん、楽しいわ」と言ってアフリカの絵を見ていた。マサイ・マラの話をした。彼女も旅が好きで、私も一度行ってみたいと言っていた。オランダの南の方にある田舎町から、アムステルダムに上京してきたのだと言う。でもこの街はクレイジーだから、田舎の方が本当は好きだと言って笑った。
人との心の触れ合いは、一人旅の私にとって救いだ。夜は淋しくて一人で外へ出る気がしないので、よくここで過ごす。
大航海時代のオランダを想う
1998年6月18日
雨が降っていた。
今日は海洋博物館に行く事にした。ホテルから見える所にあった。双眼鏡で見たら字が見えた。オランダ海洋博物館と書いてあるから間違いない。絵の仕上げをして10時頃にホテル出た。
傘をさしてテクテク運河に沿って歩いた。12.5ギルダーだった。帆船の模型だけでも素晴らしいコレクションだが、外には本物のフリゲート艦(17世紀の帆船)も浮かんでいて中が見られた。帆船マニアには必見のミュージアムである。私も帆船が好きだし、海洋冒険小説のファンであるから、ここのミュージアムは胸がわくわくした。
フリゲート船の中には本物の大砲が備えてあり、いつでも撃てる感じだ。マストの太さも、私の想像を超えるほど太かった。こんなマストが折れる風の力とは、どのようなものなのかと思った。ヤードやリギン、様々な索具が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。揺れる船のヤードの上での作業は命がけだった事が良く分かった。梶の大きさもさる事ながら、テイラーバー(舵棒)の大きさと太さにはびっくりした。嵐の時となれば、10人くらいの人間がしがみついて押せるようになっており、全てのスケールが私の想像していたものより大きく、頑丈に作られていた。
ちょうど昼時で、キッチンではコックが竈に薪をくべて料理していた(人形ではない、ここのスタッフ)。ジャガイモと豆と塩漬け豚の料理を皿にとって船員たちが食べていた。(ラム酒と塩漬け豚は大航海時代の船員にとって重要な食物であり、飲み物であった。)士官室では、船長と高級船員がボーイの給仕で食事をしていた。もちろん服とかも昔のまま再現したものを着ている。ここまでリアルだと、本当にタイムスリップした感じがしてくる。イギリスの有名なセシル・スコットの海洋冒険小説「キャプテン・ボーンブロワー」の一コマを見ている気がした。本当にこのミュージアムは素晴らしかった。(大航海時代をリードしたオランダと日本の関わりは非常に深い。その歴史については別な機会に詳しく書くつもりだ。)
帰りに街に出て、ミリタリーショップで軍用の水兵のベレー帽を買った。それから電話ボックスから家に国際電話をした。来たばかりの時はテレフォンカードを売っている店がわからなくて苦労した。
外国では何をするのも大変だ。自分でやってみればよくわかる。でも、それが旅だ。日本がいかに安全で暮らしやすいかよくわかる。身にしみてわかるだろう。その意味でも、私は若い人に一人旅を勧める。自分が温室の中で育った人間である事、自分がいかに弱いかという事、人と人との関り合い、話をする事、話が出来ることの大切さ、ものの価値、そうした事を旅の中で理解するだろう。テレビはテレビでしかないのだ。
年をとってから旅しても意味はない(心が若ければ別であるが)。遊びだけで終わってしまう。でなければ人生の苦さを必要以上に味わうだけだ。真に旅を愛し、旅が好きな人は年取って旅をしてもそれが楽しいだろう。しかし一般的には、年を取ってからの一人旅は苦痛である。そこからは何も生まれないし、仮に生まれたとしてもそれを活かすべき時間が残されていない。
であるからこそ、私は若い人達に個人で未知の土地を、広い世界を旅する事を勧める。そして、旅の中で学んだ事や旅から持ち帰った(精神的な)ものは、自分の人生にとって大きなかけがえのないものになり得るだろうと私は自信を持って言うことが出来る。
帰国までの様々なトラブル
1998年6月19日
今日はアムステルダムを去って東京に行く日だ。
朝、ホテルの近くのカフェに行きティーを飲んだ。ボートハウスの対岸にこの店が見える。小さな、しかし落ち着いた店だが、ホステスさんらはその筋の姐さんみたいにケバイ。でも気の良さそうな女達で、ロートレックやゴッホが描いた女に似たところがある。駅に近いから宿も兼ねているカフェらしく、おそらく売春宿だろう。船員の姿を見かける。
ここのティーはポットで、しかもビスケットが付いていて私のホテルの一杯のティーと値段が同じだ。私はポットでお代わりして飲む習慣があるのでありがたい。外の風景を見ながらお茶を飲んだ。
アムスの街に未練はなかった。いかがわしくクレイジーな街、水の都。ヨーロッパの街では一番面白いかもしれない。この町には若さが感じられる。常に雑多な文化が流れ込むところだ。私は、ここがヨーロッパの吹き溜まりであるという表現は適していないことに、しばらく滞在して気づいた。文化というものは、外から流れ込む異質なものがないと若さを失い滅びる。この町は昔から、そして今も若さを保っている稀有な街の一つである。雑多で猥雑で芸術的、人種の坩堝、そんな街だ。
そして水が多く、水面がこの街を際立ったものにしている。ベニスより美しい街だ。絵を描く人間には非常に魅力的な街であることを否定できない。その退廃的なムードが、何とも言えず面白い。
11時前に、リュック一つを担ぎホテルを出た。一度、空港へはリコンファームの為に行ってるからまごつかずに行けた。
切符を自販機で買う。気の遠くなるような複雑な操作も覚えてたからすぐに買えた。初めての人は不可能に近い。この販売機はコンピューターみたいになっている。最初に行先の番号を表示版で調べる。空港は1117だから、まず数字のボタンを押す。次にワンウェイかリターンかという表示が出るから、そのどちらかのボタンを押す。次に1等か2等かという表示ボタンのランプが点くから、そのどちらかを押す。大人か子供か?どちらかのボタンを押す。と、初めて料金が表示される。コインを入れてやると、またどこかのボタンのランプが点くという調子……これでは初めての人間には分からない。表示もオランダ語だからますます分からない。それでも私は切符を買い、空港行のホームを調べて13bで待った。13aというのもあるから気を付けなければいけない。
時間になっても空港行の電車は来ず、駅員に聞くと「ネクスト ワン」という答えだった。何か事故かなんかで遅れているのだ。空港に行く時は早めに行動しているので時間はまだある。ギリギリだったら焦ったところだ。結局30分遅れ、別のホームから電車は発車した。駅員に聞かねば取り残されるところだった。
スキーポール空港にて
空港に着いてから、キャフェテリアで休んだ。冷たいビールとサンドイッチで昼食した。
その後KLMのカウンターに足を運び、チェックインをした。荷物は小型のザック一つだから機内持込み出来、手続きも簡単に済んだ。ボーディングカードを貰い、教えられた搭乗ゲートに行った。パスポートチェックを受けて、出発ロビーに入った。時間が90分くらいあったのでキャフェテリアに行き、ビールを飲んで時間を潰した。この時にトイレに行っておくと良い。コインが余っていたので、土産物屋で600円くらいの風車を買った。一個だけ。
私は土産物はほとんど買わない。そういう旅でもないし、荷物になるからだ。思い出とフィルムと画帳と手記とミュージックテープだけを持ち帰る。そんな旅をずっとやって来た。
搭乗ルームが開いたので入る。簡単なチェック(X線と金属探知機)を受けて、搭乗ルームに入る。この時、ボーディングカードの一部をちぎって渡される。これが切符だ。切符にはシートのナンバーが書いてあるから、それを見て自分の座るべき座席を探せばよい。
結局KLM861便は45分遅れて、15時15分にスキーポール空港を飛び立った。乗客の9割は日本人だった。ナイロビからアムスへの機内は騒がしかった(黒人が7割くらい)が、こちらは静かなものだ。日本人は、アフリカ人や欧米人に比べると大人しいし、、声も小さいのではないかと感じた。マナーの点でも申し分ない。
よく見ていると欧米人もカメラやビデオを持ち歩いてパチパチ撮っている。日本人だけがカメラ人間じゃない。日本人にとって西洋は異文化だから、好奇心をそそられる。だからカメラでパチパチ撮るのは自然の行動だと思う。
言葉が不自由という点では損しているが、秘密を守れるという利点もある。つまり私は言葉のバリヤーの事を言ってるのだ。英語を母国語としている人達にはバリヤーは作れないから不利な場合もあるのだ。ヨーロッパ人は一昔前と違って、本当に英語をよく喋るようになっている。もちろん我々日本人よりずっと上手だし、完璧な英語を操る者も多い。
今や英語は、すっかり世界共通語となった。やはり、日本人も英会話をもっと勉強し国際社会に乗り遅れないように行動する必要を感じる。飛行場での場内アナウンスを聞き取れるだけでもずいぶん違う。日本語は日本語でしっかりと保ち、なおかつ英語で話ができるように勉強しなくてはならない。それが海外の情勢である。
窓から外を見ると、飛行機はスカンジナビア半島の上空を越え、ロシアの北側を通過しつつあった。何も無い……人の住まない凍った土地がどこまでも広がっていた。飛行機で飛びながら外を眺め観察していると、人間の住める土地が意外と少なく、人間の住んでいない土地の方がはるかに多い事に気付く。日本より広い面積に一本の道もない。一軒の人家もない。そんな土地の上空を飛んで行った。
我々は情報で何でも知っていると思いがちだが、こうしたものを見ていると、実は何も知らないのだと気付く。私はTEND OWN YOUR GERDEN(自ら畑を耕せ・・・ボルテール)という、あのイギリス人の教えてくれた言葉を思い出した。
成田空港から南伊豆へ行く
1998年6月20日
朝の9時過ぎ、KLM861便は無事成田の空港に着いた。東京は私のいたアフリカよりもむしろ暑かった。
空港での入国審査、パスポートチェックも簡単にパスした。税関では「どこから?」と聞かれ、「ケニヤからです。アムステルダム経由で今着いたところです」と若い係官に返事すると。「荷物はこれだけですか?」と聞くので「そうです」と言うと、リュックの中も見ずにすんなり通してくれた。今日はついてるなーと思った。
横浜駅の赤電話で北海道下川町の家に電話をして、南伊豆の田中君を訪ねる為に再び電車に乗った。大船から特急踊り子号下田行というのに上手く乗る事が出来た。自由席の方が人が少なく、ゆっくりと寛げた。海の風景を眺めながら缶ビールを飲んだ。日本の景色は「優しい」と感じた。アフリカのあの厳しい自然と対照的だ。
水と安全がただの国。私の目から見ると、全ての人が隙だらけで安全ボケしている。私の目つきは自分でも気づかぬうちに険しくなっているだろうと思いつつ、乗客を観察した。電車に乗っても、この当時は皆が携帯を見ている異様な光景はなかった。
車内販売の売り子から弁当とビールを買って昼食にした。「日本っていいなー!日本に帰ってこれたんだ」と私は一人で感激していた。他人には1ヶ月でも、この1ヶ月は私には半年にも1年にも感じられるくらい長かった。それほどに、次から次へと様々な事が起こり、様々な事に出会ったのだった。そして、様々な事を考えさせられる旅であった。私は半ば放心状態で窓の外を流れてゆく海の風景を眺めていた。
下田の駅に迎えに来てくれた田中君の車でさらに南へ。彼は南伊豆町弓ヶ浜に住んでいる。ヨットを作る為に、横浜から1年半前に移り住んだ。今の所に土地と小屋を借りて、鉄のヨットを一人で作っている。フレームの組み立ても終わり、外板を張る作業をしている。船の形が出来てくると作業も楽しくなる。見物人も増える。
このヨットが完成したら、ヨットで太平洋を渡り南米の友人を訪ねる予定だという。作業場は鉄工場となんら変わらない。彼はヨットを作る目的で、伊豆に来る前は鉄工場や造船場で溶接などの仕事をして鉄のヨットを作る為技術を身に付け、また制作の為の資金も貯めた。独立独歩の人である。
以前にはY-15とセーリングカヌーを作っている。今度のは長さ12メートル、幅3メートルと相当大きい船だ。鉄で作る場合は、溶接時に発生する歪みとか残対応力とかの処理が最も大変だという。材料は木に比べたらものすごく安いのだが、何にでも泣き所はある。しかし、スチール船の強みはショックに強い事だろう。少しぐらい岩で擦っても穴が開かない。凹むだけだ。それに比べ、FRPは卵の殻みたいに脆い。それもあって鉄製のヨットを作る事にしたという。
彼の小屋のベッドで私は昼寝した。体は日本との時差に慣れてない。ナイロビとアムステルダムの時差は1時間で済んだが、アムステルダムと東京の時差は7時間もある。
夕方、サトウ先生も来られて歓迎してくれた。作業場の中で、ビールで乾杯した。サトウ先生は途中で自宅に帰られたので、私と田中君の二人で色々な事を語りながら一晩飲んだ。
田中君とは、かれこれ20年の付き合いだ。学園闘争華やかなりし頃、彼も私も大学生だった。彼は羽田事件の時に捕まって刑務所に政治犯でぶち込まれ、その後日本を出て、兄を頼ってカナダに行った。彼の兄は漁師相手にスジコの買い付けをやって一儲けを狙う山師の一人だった。しかし手形の不渡りを出して、銃を持って怒った漁師たちが押しかけてきたので、逃げてアメリカへ行った。田中君はアメリカで日本へ帰る金を働いて作って、一人で日本に帰った。山師の兄はフィリピンに行って消息不明となった。
私が田中君と会った時は、川崎のガード下のちり紙交換屋で働いていた。その頃は金になったので、私も中古のトラックを買ってそんな仕事で糊口をしのいでいた。それ以来の付き合いだ。
田中君はその後、毎年アラスカのエスキモー部落に夏に行って暮らしていたが、途中からヨットの世界にのめり込んだ。私は今のフミちゃんと一緒に沖縄や外国を旅して歩き、ポルトガルから8年前の1991年に下川町の今の家に移住した。田中君も下川町には2回くらい遊びに来てる。私も毎年、東京に出たら彼を訪ねている。そんな間柄である。
南伊豆に滞在、絵を描く
1998年6月21日
天気が良いので、自転車を借りてスケッチに出かけた。
途中、街の公衆温泉で一っ風呂浴びる。「日本人によくぞ生まれけり」最高だ!外国にはこんなに寛いで入れる湯はない。
湯を浴びてから近くのラーメン屋に入り、冷たいビールと餃子をたのんだ。しみじみと、この気心の知れた日本でしか味わえない気楽さを楽しんだ。
弓ヶ浜に出て、砂浜で昼寝した。木陰に吹く風は快い。しかしながら、東京、伊豆と私には暑すぎた。海にはすでに海水浴の人達が来て泳いでいた。
昼寝の後スケッチした。ペンで下絵だけ描いて引き上げた。
田中さんの小屋で再び眠った。長旅の疲れと時差ボケのせいで、いくらでも眠れる。いくら寝ても眠い。ここで無理を続けると、マラリアにかかる事もある。薬は日本に帰っても1ヶ月は飲み続けなければならない。日本で発症した場合は、治療できる病院は全国に1ヶ所か2ヶ所しかなく間に合わなくて死んだ例もある。腰の調子もいまいちなので梅干を食事の度に食べている。
夕方、田中君とあの温泉に再び行って入った。戻ってから、二人でビールを飲んで話をした。田中君はアヒル達に餌を与え鳥小屋に入れた。ホエブス(登山用灯油コンロ)の上でムロアジの開きを焼き、酒の肴にした。
夜になって雨が激しく降り出した。雨の音と蒸し暑さと蚊のせいでよく寝れなくて、夜中に起きて絵の仕上げをした。北海道が懐かしい。
北海道の我が家へ
1998年6月22日
雨は1日中降りそうだ。ラジオはこの辺りも関東方面にも大雨注意報が出されたと放送していた。私は、体調も蒸し暑さのせいで低下気味だし、大雨になる前に北海道へ帰る事に決めた。
田中君が下田駅まで送ってくれた。駅で札幌行きの飛行機の切符を買った。9時47分の特急踊り子号に乗った。12時過ぎに品川で降りて山手線に乗り替えて浜松町まで行った。浜松町からモノレールで羽田空港へ。アフリカを想えば夢のようだ。日本はスゴイ!
空港でチェックインしたのが1時半だった。係員は2時のフライトに空席があるから乗れますよと親切に言ってくれた。3時出航の切符をその場で2時出航に書き換え、ブッキングしてくれた。所要時間わずかに数十秒。外国ではこんな芸当は全く期待できない。日本がいかに便利な国であるか、いかにサービスの行き届いた国であるかという事を思い知らされた。
1時間半くらいで北海道千歳空港に着いた。空港から旭川行のL特急に乗った。北海道は涼しく快適だった。ナイロビと同じくらいの気候。旭川駅でラーメンを食べ、名寄行の快速電車に乗り替えた。
名寄に着くと、夕方7時近かった。丁度「モレーナ」で個展をしていたマサイが駅まで迎えに来てくれた。懐かしの我が家。大草原と木と川に囲まれた私の古巣に辿り着くと、チャーリーが走ってきた。
長い旅だった。明日は裏の川でマスを釣ろう。私は、肩から重い荷が地上に降ろされすごく楽になった感じがした。もう2度とあんなキツイ旅には行きたくないと思った。でも山と同じで、また行きたくなるに違いないと思う。(完)