隠れ家的レストランモレーナのインドカレーと世界を放浪したマスターの旅

脳梗塞闘病記

脳梗塞闘病記 1

はじめに

 忘れもしない2月の冬の寒い朝だった。(-20℃)犬と散歩してアトリエにもどり、ストーブで体を温めた。アトリエは風連の望湖台付近に借りていた。コーヒーを入れるためにイスから立ちあがると体がフラフラした。このところ絵の制作に没頭し、私は疲れているのだろうと思った。体を休めて、明日になってもフラフラするようなら病院に行く事にした。その時、私は66才だった。
 昼までベッドに横になり休んだ。起きて食事をしようと立ちあがるとまだフラフラした。そこでまたベッドに横になり休んだ。しかし、急に不安になり買ったばかりの携帯で下川のモレーナに電話すると、フミちゃんに「すぐ病院に行ったほうがいいよ。」と言われた。歩くともう千鳥足状態だった。外は吹雪いていたが、車を運転して、一番近くにある風連の診療所まで私はなんとか行く事ができた。A医師の的確な判断により、私は救急車ですぐに脳神経外科のある名寄市立病院に運ばれた。携帯もなくフミちゃんと連絡も取れなかったら、この時A医師の迅速な対応がなかったなら、ここまで回復できなかったと思う。フミちゃんとA医師に心から感謝している。
2010年2月9日から7月1日まで入院した。あれから3年が過ぎた。その間フミちゃんが亡くなり一人暮し。しかし、私はヘルパーなしで、自分の世話、店の仕事、畑、車の運転などすべて出来るまでに回復した。この日記を読んで、一人でも生きる希望を得る患者さん、リハビリ中の人がいれば、書いた事がムダにならず社会の為になるだろう。お世話になった方々に感謝の気持を伝えたい。


2010年2月16日 名寄-20℃  名寄市立病院  脳外科担当医 白井和歌子先生
 私は脳梗塞で倒れた。(ラクナ脳梗塞、左側マヒ)血圧180 体重75㎏ 病院の白い天井と壁に囲まれベッドの中にいる。 2月9日の夕方に救急車でここに運びこまれて以来、すでに一週間になろうとしている。まったく植物人間同然になった気分だ。昼間は検査、リハビリ、食事や入浴で気がまぎれるが、夜は急に孤独になる。「あの時、グズグズせずにすぐ病院に行くべきだった。」「もっと、食事に気をつけていれば、こんな事にはならなかった。」「犬を飼わなければ良かった。」「もっと、早く旅に出れば良かった。」「もっと、体を大切にすれば良かった。」と後悔の念があとからあとから沸き上がり、それが私の心をさいなむ。気が狂わないのがフシギだ。眠る事も出来ず、長い夜をじっと壁を見つめ続け、たまらない気持で過ごす時間は悪夢だ。明け方にやっとまどろむ。それがせめてもの救いである。
となりのベッドのKさんはイライラして舌を噛み切ろうと思ったと言うし、むかいのベッドのMさん(漁師)は「オラはもうハラが立ってハラが立って頭をぶち割ろうと思った」と言う。自分では何一つ出来ない不自由な肉体にハラが立つのだ。昨日まで自由だったのに、普通に暮らせたのに・・・。昨日まで、何でも出来たのに、突然、何もかもが出来なくなってしまうと言うのは、死よりも苦しいと知った。
 救急車で運ばれた次の朝、目がさめて驚いた。両手、両足がまだ動いた。それで助かったと思い嬉しかった。しかし、三日目になると、左足と左腕は固まり石の様に動かなくなった。医師は「ここからスタートです。」と言った。それでも、今こうして書き始めて気がついたが書く事で、だいぶ心が軽くなった。左足と左腕は重い石の様で動かない。けど、右足と右手は動くし目も見えるのだと言う事に私は気がついた。
となりのベッドのKさん(65才)は、私よりも重くて目も見えなくなり、左手、左足はマヒしている。 Mさん(75才)は手足も効き、歩く事は出来るが目が見えなくなり、ロレツがまわらない。そのとなりのAさん(81才)は軽くてなんとか歩けるが、一人では歩けない。糖尿病でロレツがまわらずフラフラしている。私とKさん以外は、皆70代、80代だ。私は今66才であるがここでは若いと言われる。いずれは、あきらめ、こうした不自由さにも慣れる日が来るに違いない。
でも、昨日まで歩けたのに、車も運転出来たのに、自由に体が動いたのにと 考えるとたまらなく苦しい気持になる。私もケガや病気でかなり入院の経験があるけど脳性マヒと言う症状は初めての経験だ。こんな苦しいものとは知らなかった。

2010年2月17日 ハレ 名寄-20℃
 後悔と不安のためにベッドの中で転々としてあまり良く眠れぬ夜が続いた。それでも昨夜は(室温が適度であったせいもあって)転々とすることもなく、わりあい良く眠れた。となりのベッドのKさんから旭川のリハビリテーション病院の話を聞いた。そこでは、毎日3回くらい集中的にリハビリが受けられるので結果が期待できると言う事だ。その話を聞いたりしているうちに、私の中にも少し希望の光がうまれた。リハビリしだいでかなり良くなると言う。
すると私の不安もやわらいできて、気分が明るくなった。ここでは毎日が不安と後悔との斗いと言っても良い。精神的には男の方が女よりも弱いのだとナースさんが言っていたのを思い出す。朝6時ベッドの上でシビンを使って小便をした。  自分で出来るだけましだ。しかし夜中に何度か失敗し恥じた。自分で出来ない患者もけっこういる。

2010年2月19日 雪 -2℃
 前はベッド脇のポータブルトイレでナースさんに手伝ってもらって大便をしていたが、今は車イスでトイレに行けるようになった。もちろん、まだ一人ではムリで、その都度ナースさんを呼ばねばならない。彼女らは何から何までしてくれる。(パンツの上げ下ろしまで)本当にありがたい気持で一杯だ。彼女らの手助けなしでは、私は何もできない。地獄に仏とは、このことだ。入院して最初に私と二人部屋にいたサルルの漁師Nさんが退院した。
心臓の大動脈瘤の手術のために4月3日に、再びもどって来る予定だと言う。それでもジョークを言い笑っていた。「なーに!どーて事ねぇ、そん時はそん時よ。サルルに帰ったら、また明日からアミつくろいやるんだ。」そう言って去って行った。「浜へ来たら、寄ってくれ、オレはいつも家の裏で網をつくろっているから。」私より3つ上のNさん(70才)はサルル浜の漁師の家の次男に生まれた。人一倍働き、船を持ち(7千万円以上)、組を立ち上げ親方になった。小柄で頭が良く、人も良いし面白い人だ。農家と同じで、漁業権とか、漁場は長男に譲られると言う。だから、2男や3男は、雇われて働くしかない。でも頑張って自分の漁場を手に入れ、組も立ち上げた。とてもそんな人には見えない。気負ったところは一つもなく、朴とつな浜の漁師だった。
私の右腕には点滴の管、左腕に24時間自動測定式血圧計の配線、そして胸には24時間の心電図計器が取り付けられていた。24時間ぶっ続けの点滴がやっと終り、何本も垂れ下がっている導管が外され、ゆっくりと眠る事が出来た。やっと自分で身を起し座れるようになった。(右手を使って)前は手すりにつかまらねばムリだった。
作文をしたいが、3分が限度だ。目が変になる。テレビも同じだ。ノート1ページ書くのに丸1日かかる。ラジオはOKだ。楽しみが限られたけれど、音楽を聴けるのは大いなる救いだ。しかし、そのラジオも床に2回も落したので聞えなくなってしまった、何もかもが思い通りに出来ないのが口惜しい。はじめ、手足が自由でスタスタ歩けるNさんがうらやましかった。しかし、心臓に動脈瘤が見つかり、しょげているNさんを見たら、その気持も消えた。手術で助かる確率は1/2以下、死を予告されたに等しい。さすがに浜の漁師らしく潮気に満ちたNさんもジョークを言わなくなった。上を見ればキリがないが、自分よりもひどい状態の人も多い。

2010年2月22日(月)うすぐもり
 眠剤のおかげで、昨夜はぐっすり眠れた。そのせいか、体も元気になり、気持もラクになった。左足のヒザの頭を軽くつかめるようになった。ウメちゃんとケイコさんがシベツ(士別)から見舞いに来てくれた。落語のテープを貸してくれた。2時から3時まで1階でリハビリを受ける。立つ練習、夕方にフミちゃんがラジカセを届けてくれた。「あーちゃん(ネコ)がトイレの中に落ち、杉田さんに手伝ってもらって、やっと引き上げたが、後始末が大変だった」と言う。「ジュディー(イヌ)も世話がかかるイヌで店の仕事、家事、雪下ろしと休むヒマがない」とこぼしていた。今回は自分が倒れた事で彼女にずいぶん、負担をかけてしまった。やりきれない思いだがどうすることもできない。気分がガーと落ち込んで行く。
気分転換にベッドのフチにつかまって、立つ練習をした。10日あまりもベッドに釘づけである。それでも、運動(立つ)をする事で、気分はだいぶ持ち直す事が出来た。春の到来を思い、モレーナの周囲を歩いている自分の姿や畑の中で作業している自分の姿を頭の中に描いていたりしていると、だんだん気持が軽くなって行く。毎日がこんな事の繰り返しである。眠っている間が一番ラクだ。こうゆう事は経験してみないとわからない。
ラジカセで音楽が聞けるようになり、嬉しい。音楽は大いなる救い、なぐさめ、そして力だ。音楽はすごいなーとあらためて思う。テレビはまぶしくて目が疲れる。
 今日は朝食のあと、ナースさんに手伝ってもらい車イスでトイレに行った。車イスから便器への移乗がうまくできたので嬉しい。午後1:30からリハビリ、立つ練習、歩く練習も始まった。座る事は出来るようになった。それもやっとであるが・・・・・でも立ち続ける事はグラついて出来ない。一分間が限界だ。私は本当に歩けるようになるのだろうかと不安になる。
PM3:00からフロ、車イスで移動、フロは家庭用よりずっと広い。車イスから浴場イスに移してもらい、そのままシャワーで洗ってもらう。新しい病院パジャマとパンツに替えさせてもらうとサッパリとして気持良かった。フロから戻ると風連のオルゴール製作家のハシバ君とイチコちゃんのメッセージが机の上に置いてあった。その横に「持たない贅沢」と言う本が置かれていた。目がものすごく疲れるので読めないけど心づかいが嬉しい。夕方、4人部屋から6人部屋に移された。
夕食後、ベッドにひっくり返って天井を見つめているとヤア!と言って車イスに乗ってトオちゃんが部屋に入って来た。トオちゃんは足を骨折して、同じ病院に3週間前から入院していたと言う。トオちゃんのとなりに住む山田老人(故人)の話を聞いた。脳梗塞で倒れたがリハビリして今は一人で元気で、人の手を借りずに暮らしていると言う。山田老人(81歳)が畑で作業している写真を見せてもらいおおいに勇気づけられた。

2010年2月23日 ハレ
 春まだ遠く、病棟の窓から見える家屋やビルの立ち並ぶ街の家なみは、白一色である。工場や家のエントツから白い煙がユラユラと立ち昇っている。かなたには、灰色の低い山並が横たわり、右手にはピヤシリが見える。いずれにしても気のめいるような灰色の風景だった。私の部屋の他の患者はテレビを見ている。私はカセットデッキで音楽を聴く事でなんとか精神のバランスを保っている。

2010年2月25日 ハレ バカ陽気
 6人部屋で歩けないのは自分一人、その他の人達は皆歩け、退院間近の人が2人いる。白内障の人が3人いる。ここは出世部屋と呼ばれている。2時過ぎにエサシのマツとヤスエさんが見舞いに来てくれた。CDを持って来てくれた。音楽の趣味が同じなので助かる。読書もテレビも日記も目が疲れてしまうので、音楽が聞けると助かる。夕食をベッドで食べていると山本のトモちゃんが見舞いに来てくれ嬉しかった。この病院にお姉さんが入院中と言う。彼女が帰り、日記を書いていると本人が目の前にいたので驚いた。元気そうだった。治ったらアメリカへ行きたいと言っていた。
 その時、トオちゃんが車イスでまた部屋に来てくれ3人で少し話をした。  

2010年2月26日  
となりのベッドは86才のYさんと言う人であった。士別の農家で老人会の会長をやっているかくしゃくとした老人である。「あの世から帰って来た者はいないのだから極楽とか、地獄が本当にあるかどうかはわからんよ。でも極楽があると信じる事が大事なんだ。信じることが大切だよ。信じなきゃ友達もできない。」と彼は言った。話してみると、非常に頭の良い人だとわかった。学校を出てなくても、賢い人は賢い。この人には、野菜作りの話から色々な事を教えていただいた。短期間ではあったが忘れがたい人であった。今日は同じ室から3人退院した。山下さんも退院した。
 朝の検診の時に「旭川のリハビリ病院に行きたい」と担当の白井医師に話すと「検討してみます。」と言ってくれた。多分OKになるだろう。車イスでトイレに行く時、付き添いの若いナースが「あそこへ行った方が、絶対良いよ。だって前、ここに入院してぜんぜん歩けなかった人があそこへ行って歩けるようになって、外来で逢ってびっくりするもの」と小声で話してくれた。
 立場上、知っていても彼女らは患者には言えないのだ。リハビリの時医療支援相談室の高橋さんが私の体の状態をチェックしていた。それによって、旭川のリハビリ病院が私を受けいれるかどうか決まるらしい。幸いな事に高橋さんはトオちゃん(尾潟)の仕事上の知り合いと言う事で私の事を気にかけてくれた。

2010年3月1日(月) ハレ
 お昼に病院へ胃のクスリをもらいに来たヒロコさんが寄って行ってくれた。ヒロコさんの所はテンの出没でテンヤワンヤらしい。ネコはいるが弱虫でテンに追い回され、まったく情けないとこぼしていた。
「足がないので、今日、フミちゃんは来られないって言っていたよ」と教えてくれた。ガッカリした。車は車検中、代車は犬(ジュディ)がシートベルトをかんでボロボロにしてしまい、困るから借りられないらしい。車のシートベルトは犬に噛み切られたので交換しなければならなかったと言う、高くつきそうだ。
夜むかいのベッドのAさんと尾潟のトオちゃんと3人で話を1時間くらいしたので楽しかった。まだ首を支えるのがつらい。Aさんは今年86才と言う。同じ脳梗塞だが軽くすみ、明日退院する。旭町で金物雑貨商を営んで、財を成した。背の高いホッソリした話好きの老人だ。非常にていねいな言葉使い(古い)をするなかなかに品格のある人物である。
 明け方目がさめた。そして昨日ヒロコさんから聞いた話を思い出した。「堺君の話では、旭川のリハビリ病院はいっぱいだ。」と言うことだ。リハビリは早目に集中的にやらないと効果がない(3ヶ月以内)と言う事だから、そちらに転院出来ないと困る。それどころか、その前にここを出されたら、なお困る。そんな事を考えると気分が落ち込んだ。なんだか、仕事、家庭、老い先の事を考えるとセツない。自殺を何度も考えた。自分がもっと強ければ良いのだが、こうなると人間は弱いもんだ。

2010年3月2日
 Aさんは中士別に昔あった、あの大理石づくりの立派な岡崎病院の院長とは、縁戚関係で坂田病院の坂田文子先生は院長の娘に当ると言うことも教えてくれた。私が「名寄で絵の個展をした時に坂田文子先生にずいぶんお世話になった」と言うと「そうですか。」と、とても懐かしそうであった。A老人はもの静かで頭が良く、思考も柔軟で私の旅の話や絵の話、モレーナの話をよろこんだ。そして興味深そうに目を輝かせて聞いてくれた。そうやって旅の話を聞いてくれる人がいるのは嬉しい。それで私も元気が出た。今日で入院して3週間になる。朝、回診に来た白井医師に旭川のリハビリ病院に行くまで、ここに居てもいいですか?」と聞くと、「来週には行く事になるだろうから、心配しなくでもいいですよ。」と言われた。私はホッとして胸をなでおろした。気持が急にラクになった。昼まで松崎老人と話す。彼はPM2:00頃退院した。再会を約束して別れた。白井医師は「きっと歩けるようになるわ」と言ってくれた。たとえそれがウソであったとしても私は希望を持ち頑張ることができた。
 午後、リハビリ室に行く。歩行の練習、まだ一人では歩けない。けっこうきつい。倒れそうでこわい。ミラーBOXを使って、指を動かす練習をした。効果が大きいので、驚いた。夜 トオちゃんが来る。しばらく話をした。他人に家庭の問題や自分の悩みを話せたのは彼だけだ。トオちゃんはよく私の気持の落ち込みをわかってくれた。それでだいぶ私の心もやわらぎ眠る事が出来た。

2010年3月3日 ハレ、くもり、時々雪
 昼すぎにトオちゃんが来た。ふだん着なので驚いた。これから退院するのだと言う。私が貸してあげたパステルで描いた花の絵を見せてくれた。中々良い。私の描いた「カシュガルのカジ屋」の絵は父親が亡くなり、今はトオちゃんが所有していると言う。
トオちゃんと話していると、私のカトリックの名付け親である伊藤夫妻が来てくれた。ちなみに不信心者の私の洗礼名はフランシスコである。彼らは家が近いせいもあるけど、本当に親身になって私の世話をしてくれる。ツメも切ってもらった。ありがたい気持だ。伊藤さんとは文学の話をした。クツ下が一足しかないと言うとあとで買って来てあげると言い、夕方にわざわざ届けてくれた。  夜、8時前にクワちゃんが来た。お母さんが膠原病で入院しているとの事。彼女にフミちゃんへの伝言を頼んだ。マヒが進んだのか、目の働き(左)が悪く、本は半ページも読まぬうちに疲れてしまう。テレビもダメ。日記は一度に5行程しか書けない、そのあとは目をしばらく休ませねばならない。それでも毎日書いている。今の私の心をいやしてくれるのは、音楽だけだ。口びるの左半分もマヒしたままである。食事の時、よだれ掛けがないと食べ物が、口の端から落ちパジャマを汚す。
 A老人が退院して、部屋は私1人だけになってしまい、話相手もなく、淋しかった。

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