隠れ家的レストランモレーナのインドカレーと世界を放浪したマスターの旅

脳梗塞闘病記

脳梗塞闘病記 3

 2010年3月14日 風雪  昨夜は、荒れたようで、かなり雪が積もっていた。午前中、自主リハビリをする。(ベッドで)伊藤さんの小説の残りを読み終り、批評、感想文を書きあげた。(アマチュアなりの・・・)
午後3:00頃 伊藤夫妻が来た。ポットにアメリカンコーヒーを入れて持って来てくれた。小説の原稿と感想文を伊藤さんに手渡した。そんな事をしていると、トウちゃんが来た。頼んでおいた、水彩画のセット・住所録・テープをアトリエから持って来てくれた。ありがたい。ただ心の中で手を合わせる。トウちゃんにだけは、離婚の事とそれによって大きなショックを受けた事をうちあけた。
トウちゃんは経験者だから良くわかってくれた。友はありがたい。3人が来てくれたおかげで、沈みがちな私の心もいやされた。ナンバさんは、ちょくちょく来て「売店に行くから、何か必要なものはない。」と聞いてくれる。彼女ももうすぐ退院する。夕食後にクロスオートの会長村上さんが来た。
教会のミサに行くと必ず会う、私より10才ぐらい上の人である。(私は名ばかりのクリスチャンで教会へたまに行く程度だが)村上さんは農家の生まれだった。自動車工場を経営していた兄の所で働き、40才を過ぎていたが整備士の資格を取った人である。彼はリハビリに良いからと言ってハンドルの眠り防止用のゴムのトゲトゲのあるカバーと丸く削った木で図のような握りを作ってわざわざ、持って来てくれた。(マヒした左手でこれを握る訓練をした。)

村上さんがリハビリのために作ってくれた器具の図

2010年3月15日(月)くもり
 伊藤さん(西條デパートでレコード店を経営)とニコラオ神父の出会いは、伊藤さんが旭川教育大の学生だった頃のようだ。その頃、ニコラオ神父は教育大の近くの教会の司祭であった。伊藤さんはここでニコラオ神父から洗礼を受けてクリスチャンとなった。伊藤さんのその後の人生に師は大きな影響を与えた。そしてもう1人の師は陸軍士官学校卒の英語の教授であったと言う。2人の師はともに語学の天才であった。私には特に師と呼べる人(養蜂学の井上丹治先生の他には)との出会いはなかったが、しいて言えば、ヘルマン・ヘッセでありトルストイであった。その他思い当たるのはD・H・ロレンスである。思想的にはルソーの影響を強く受けた。(ルソーの生い立ちはきわめて劇的だ。美少年のうえ放浪児であった。長じてフランス革命の思想的主柱となった。)
 午前10時頃に、以前向いのベッドにいたYさんが来た。私より1つ上、長身でダンディーである。彼は親切で、私を1階の窓口まで車イスを押して連れて行ってくれた。(まだ1人で行く事は許されていない。)。私はそこで入院費(2月分)を支払い(11万円)部屋に戻ると高橋君(相談員、ソーシャルワーカー)がやって来て、旭川のリハビリ病院への転院が決定した事を知らされた。(3月17日旭川リハビリ病院への転院決まる。) 昼食( ○酢豚 ○白菜おひたし ○キャベツときのこのソテー ○イチゴのムース  急に身辺があわただしくなって来た。でも、ずっと決まらなくてヤキモキしていたので、ホッとした。私は家と伊藤さんに電話した。その時も山本さんは、電話室まで車イスを押して連れて行ってくれた。うまく連絡がつき、伊藤さんの車で旭川へ行く事に話がまとまった。フミちゃんは今日(月)の夕方に、トレーナーと荷物をまとめて、リハビリ病院へ行くのに必要なトランクを持って来てくれる事になった。Yさんは帰る時に「もういらんから」と言って私に目覚まし時計をプレゼントしてくれた。自分1人だけでは、なにも出来ない。皆に助けられて私は旭川のリハビリ病院へと行けるのだ。ありがたい気持だ、その事を自分は忘れてはならないと思った。入院当時の仲間はもういない。
4人部屋で一緒だった漁師(サルル)のMさんは、ボケが急に進みオコッペ病院に戻り、Kさんは今日の朝、退院し、そのまま旭川のリハビリ病院へ転院した。夕方、フミちゃんが来る。3階のロビーに行きナンバさんと3人でフミちゃんの持って来てくれたコーヒーを飲み話す。同室のC老人と絵の話をした。この人は大変な物知りで、面白い人であった。C老人(血栓症)は、頚動脈の血栓が詰まって手術したばかりだ。詰まった個所を切開して血栓を取り除くものだ。「一昔前なら、とっくに死んでいたよ」と彼は言い、笑った。「足も血管を入れ替えたんだ」と言って見せてくれたが、体中、手術の跡だらけでビックリした。「まあ、それでも80才まで生き延びたさ。これも医学が進歩したおかげだよと彼は笑っていた。

2010年3月16日 だいぶ雪もとけた。
 明け方、目がさめて、エアーテッシ(ナヨロFM)のM・Cをエアーチェックした。この時間帯はトークもなくM・C、それも私の好みの1970年代音楽だけ流している。もう4本くらい録音した。朝10時、C・T検査 午後1時頃にサカイ君と甥っ子のカズホ君が来た。3年前つくばの家で会って以来の再会。4月から千葉の上総(かずさ)一宮の水産会社に就職すると言う。サカイ君は病気の両親を抱え、3月一杯で旭川の高校を定年退職すると言う。皆、それぞれに人生の節目に差し掛かっている。私もそうだ。午後2:00より、ここでの最終のリハビリ、お世話になった理学療法士の伊藤君にお礼を言って別れた。そのあと、看護師の付き添いで入浴。午後4:00頃、伊藤さんとかの子さんが来る。頼んでおいた、ジャージを買って来てくれた。旭川へ持っていかない荷物を預かってもらう。明日の朝7:30に出発だが、ラジオの天気予報では大雪らしい。  

2010年3月17日 吹雪、大雪
 朝の7:30に伊藤さん夫妻が車で迎えに来た。車イスに乗り、病院の玄関前に停めた車まで行き助手席に手伝ってもらって乗った。外気に約40日ぶりにふれる。婦長とナンバさんが見送ってくれた。
 降りしきる雪の中を旭川へ向って出発した。和寒・比布あたりは猛吹雪で前がやっと見える程度であった。朝めしはかの子さん手作りのおにぎりを車の中で食べるうち旭川市内に入る。ホワイトアウトのため、市内の地理に詳しい伊藤さんでなかったら、迷ってしまうところだった。「昔はここに私達の店があったんだよ。」と街の一角を指して彼とかの子さんが懐かしそうに話してくれた。2人はそこで昔レコード店を営んでいたと言う。そんな事を話しているうちに旭川医大まで来た。旭川リハビリ病院は手前の信号を左に入ってすぐにあった。ここも大きな建物であった。今はそれも吹雪の中で、おぼろげに見えた。カーゴに私の荷物を移し、私は車イスに移り2人に押してもらって、病院の中に入った。明るく広々している。受付で預かって来た書類とクスリを渡してから、係のナースさんの案内で2Fの用意されたベッドに落ち着いた(北210号)前と同じ6人部屋だが、ずっと広く明るかった。顔を洗う洗面所が室内に設けられている。ここでも私がいちばん若かった。そして私がいちばん元気だった。私は自分の不運を嘆いたが、もっと不運で孤独な人達がたくさんいるものだ。
 担当の山口先生の診察から始まり、色々な検査があって忙しかった。(肺レントゲン、心臓エコー、その他)食事は車イスで食堂に行き、皆と一緒にすることになった。私は食堂で、一足先にナヨロ市立病院からここに転院したKさんに逢った。彼の席は私の向いであった。  私達は再会をよろこんだ。2人は言わば同期のサクラである。食堂に来られる患者は全部で20名ぐらい。30代の2人の女性を除いて、他は皆、私達より年長80代が多かった。90代の人もいた。話ながら食事しているのは、私達だけ、彼らは孤独で社交的でなかった。そうゆう性格の人もいるけど、耳が聴こえないとか、口がもつれるとか、失語症、ボケなどが原因であるようだ。ここでも、ナースさん、介護助手の人は皆、親切でやさしい。それが救いとも言える。
夕食のあと、アカベの母さんに電話した。アカベさんは去年脳腫瘍の手術を行い、元気になった。「あの時は大変だったけど、過ぎたら、けっこうさわやかな感じよ。クリさんも人間、一皮むけて変わると思う。」と言った。そのあとナヨロの伊藤さんに電話。今、家に着いたところだと言う。途中、用事を済ませ、士別市立病院に入院中の徳永シスター(80才)を見舞って来たけど、見違える程元気になって良かったと話してくれた。徳永シスターは血栓症で入院した。

2010年3月18日 雪 体重68㎏ 血圧130―81
 頚のエコー検査、尿、便、血液検査を午前中した。この6人部屋も患者の入替が激しい。落ち着かない雰囲気で疲れる。しかし、リハビリテーションで有名なこの病院に入れただけでも、ラッキーと言わねばならない。1時過ぎにアガぺの父さんと母さんが来た。ハチミツと皮をむいてすぐ食べられるようにした夏ミカンを持って来てくれた。ナヨロの病院で会った時に比べて、私がとてもやせて、顔色も良くなり表情がしっかりしていると言われた。(倒れた時75㎏あった)
「元気になって良かったネクリさん、この程度ですんで。」私は差し入れのガルバンゾのサラダを食べた。話をしているうちに、リハビリの先生が呼びに来たのでアガペさんらと別れた。 午後3:00からMR検査(脳)午後4:00からレントゲン透視によるのど嚥下検査 そのあと、生活リハビリの先生による質問とテスト 夕食は6時、Kさんは明日、4階に移動が決まったと話してくれた。4階はリハビリを受ける患者達の階で50人くらいいて、目的別にいくつかのリハビリ室があるらしい。

2010年3月19日 ハレ
 午前中10:00にMRI(脳)の検査、同室の患者と話した。午後2時からフロ(週1回)そのあと、作業リハビリを受けた。左脳を動かす訓練を始める。スゴイ!と思った。

2010年3月20日 くもり、ハレ
 車イスでエレベーターに乗る許可が出た。朝食に食堂へ行くが、話し相手のKさんがいないのでつまらない。私の前も横も80代くらいの老人で耳が悪かったりボケていたり、話しかけても返答がない。哀しい気持になる。食事中に話をする者はいない。(頭の大きい60代の人がいたがいつも黙っていた。)午前11:00頃、5Fの床屋さんへナースさんに連れて行ってもらった。頭がサッパリして嬉しかった。係の人が洗濯物を持って行った。昼食は私の好きなうどんだった。昼食のあと車イスで部屋にもどる。私のベッドは入口の近くにある。窓際の一角に洗面台がある。窓からは緑色の壁のスポーツクラブが正面に見える。右手に医大の白い大きな建物が見える。いずれにしても殺風景な灰色じみた風景である。リハビリなし。気がめいりそうになる。㊏㊐は療法士が出勤しないのでリハビリはないのだ。

2010年3月21日 春嵐 黄砂来る
 6時起床 朝から強い風が吹いている。日よう日なので院内が静かで、のんびりしたムード。着がえが無くなり待っていられなくて、ビニール袋(よごれた下着)をヒザにのせ車イスを運転しエレベーターに乗る。初めて洗濯、8時の朝食の前に5階の洗濯室まで、車イスで乾いたパンツとクツ下を取りに行った。10時頃に付き添ってもらって1階の売店に行き、テレフォンカードなどを買い入れた。倒れてから売店に行くのも、洗濯室に行くのも初めての事で嬉しい。
サカイ君に電話した。2階の同室の患者は私以外は80、90代でやせ細り半分死んでいるように見える。そう言う所にいると自分の未来を見ているようで、とても落ち込むし気がめいって来る。死にたくなる。サカイ君にそれを話すと彼は父親が入院しており、よく病院に行くので、私の気持をわかってくれた。それでだいぶ救われた。同室の他の患者に話しかける努力をしようと思う。目が疲れやすいので、テレビもだめ、本も読めない。ラジオや音楽テープはOKだ。日記は10行書くのがやっとだ。
 ラジオでは映画評論が面白かった。何もない時は、アフリカや南米を旅した時の事など思い出す。ひとつひとつのシーンが頭の中にかなりはっきり浮んで来る。同室のDさんとは時々話すようになった。この人は81才だが、頭もしっかりしており、若々しい人だ。仕事もまだ現役で、社会保険労務と言う保険関係の仕事をしていると言う。「舞台芸術、音楽とか、絵はそれに感動し呼応する観客がいて、始めていっそう精彩を帯び、オーラに包まれ昇華するんだね。」と言うような話し方をする。インドカレーについて色々な質問をぶつけて来て、私のカレーの話を楽しそうに聞いてくれる。「男より女の方が感性が豊かだし、レストランに行くし、色々な事をやっている。男は仕事人間が大半でワンパターンだからバカで話題が乏しいと思うな。」 と言って笑った。ボクも若い頃に旅をしたかったなぁ。絵描きになりたかったよ、君はいいなーハハハ。」とくったくなく笑ってみせる。「人間って年とると、一日中黙っていても平気になるもんだよ」杉田さんやフミナシさんにどことなく似ている。「人に使われるのがイヤになって30才くらいの時に資格をとって今の仕事を始めた。」と言っていた。彼は10年前に脳出血をやり、そのあと心臓の(5年前)弁膜症の手術をしている。今回は年齢的に腎臓の働きが悪くなり、両足がむくんでおり、歩くと痛いと言う。それでも自分で歩いてトイレに行く。他の患者みたいに泣き言を言わない、ウツに、はまらない。プライドがある。明るい。彼が他の患者と違い、夢を抱いた青年のような目をしているのは何故か?何にでも興味があり、柔軟である。私は考えてしまう。
 奥さんはいないようだ。自分は本当に弱虫だと思う。81才の彼を見習わなくてはいけない。ここでの食事は朝8時、昼12時、夕6時である。点滴中の人とか、起きられない人はベッドで食べ、そうでない人は2Fの食堂で一緒に食べる。食事が終ると、クスリをナースさんが持って来てくれる。飲んだ事を確かめる。クスリは薄いお茶で飲むのだ。向いの席には80才くらいのメガネをかけた老人で話しかけると笑顔を見せるが少しボケている。家はオトイネップだと言う。食堂は全員、車イスに乗ったまま食事する。
担当の山内医師が来て、今までの検査では異常はなく心配ないと教えてくれた。終ってからベッドにもどり休む。理学療法のリハビリの先生(熊谷)から療法を受ける。歩行訓練、左足に補助具をつけ、杖による歩行、スピードを計る。私のとなりのベッドの人は35才の時クモ膜下をやった。
奇跡的に回復したが、60才の時に脳梗塞で倒れた。倒れる前は酒量も体重も増えていたと言う。歩行は出来るがろれつが回らず、言葉が聞き取りにくい。簡単な会話は分かるが少し難しい話になるとだめだ。今回は胆石の検査で入院した。昨日は原因不明の熱(39℃)でうなされ苦しそうだった。医者がステロイドを注射、熱は下り、今日は元気になりケロリとしている。ラジカセのイヤホ―ンが外れた時「高校3年生」の懐かしいメロディーが聞こえた。
私も心して摂生しないと同じ道をたどる事になるだろう。洋子さんも脳梗塞を繰り返しひどいらしい。この部屋でナースさんの付き添いなしでトイレや食堂に行けるのは私だけである。(車イスで) 夕食の時いつも前にいたKさんは現れなかった。席のテーブルの上から彼の名札が消されていた。4階に移動したのだろう。(昼間、そう言っていた) 夜8時頃、サリーリの木下さんに電話した。彼は「何が必要か聞き私が音楽と言うと来週の水ようあたり、C・Dを持って行くと約束してくれた。

2010年3月21日(日) 午後4:00 心電図計を外す

2010年3月22日(月)
 午後1:20 理学リハビリ 午後2:30 作業リハビリ リハビリが終れば、部屋をはなれても少しなら大丈夫なのだ。(リハビリの先生は、部屋まで呼びに来るので)エレベーターに乗り、車イスで4階のKさんを訪ねた。(私は3階) 驚いた事に彼の部屋は個室であった。窓からの眺めも良く片すみにはロッカーと洗面台もあり、ビジネスホテルにいるようだった。Kさんは私が来たので、おおいによろこんで、色々な話をした。
とにかく、4階でも話相手がいないと言う。食堂でも話ながら食事する事はないと言うので、私もガッカリした。老人ホームのような、ムードだと言う。彼も最初は周囲の患者に話しかけたが、返事もかえってこないので、やめたそうだ。なんと言う世界だろうか。しゃべるのが大儀なのか。皆一様に自分の内に閉じこもっているようだ。どうして、心を開こうとしないのか?未来世紀みたいで恐ろしくなる。脳の病気の特徴なのかも知れぬ。私やKさんは手足のマヒだけだが、色々あって、言語機能をやられている者もいる、ろれつが回らなくて、うまく話すことが出来ない者、脳の働きが低下している者、耳がよく聞えない者、ウツ病の者などがいる。これらの人に話しかけても、返事がないのはあたりまえだ。
 時々、どこかの部屋から動物のような叫びが聞えて来てゾッとする。一瞬、ここは精神病院かと錯覚する程だ。夜中も鳴りひびくナースコールに夢を破られる時もある。たいていはトイレに1人で行けないか、点滴が止った事をナースさんに知らせるためのものであるが、危急の事もしばしばある。夜中にとなりのベッドで患者のオムツを取り替える時もある。看護助手さんやナースさんは大変な仕事だと思う。本当によく世話してくれるので、頭が下がる。白衣の天使と言うがそんな生やさしい世界ではない。彼女らは必死で昼も夜も働いているのだ。
ここに比べると、あの結核病棟は文学的であったと思う。私は若い頃に結核を患って東京芝の北里大病院に入院していたが、日常に会話があったし、文学好きの患者が集って「カベルネ」と言うサークルを作り、カフカやカミユの本を読み、人生や戦争や恋愛や平和について毎日語り合った思い出がある。  夜8時頃マサイに電話した。明後日にヒロ子さんが診察のため旭川に行くので、そのついでに一緒にここに来ると言う。嬉しかった。

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