9−1 ハンガリーの田舎の印象
1997年4月24日 晴れ
今日は久々の快晴。窓から差し込む光が眩しく、清々しかった。青い青い空の色は久しぶりだ。
バスは定刻の時にエリジャベート広場のターミナルを出発した。
南へ行くほどに空は青さを増し、やがてハンガリー大平原にバスは達した。緑の小麦畑も地平線も大型のトラクターも陽炎の中で揺れていた。
私は北海道が懐かしかった。
私達のバスはドナウ川に沿って走り続けた。バスは時々、見知らぬ街に停まった。
ブダペストでも英語はあまり通じなかったが、ここまで来るとほとんど、全く、絶望的に通用しなくなった。ハンガリー語は、正確にはマジャール語である。
このマジャール語と英語とは月とすっぽん程も違う。ハンガリー人が英語を覚える大変さは、我々日本人と変わらない。ロシア語やドイツ語の方が、こちらではずっと流通性があるようだ。
大きな街のバスセンターにバスが停まった時に、運転手さんにトイレに行きたい事を何とか理解してもらうのに苦労した。しかしみな親切で、トイレの場所を教えてくれ、バスの運転手は紙に11:55と書き込んでみせ「スタート」と英語で教えてくれた。
スタートまで15分位あったのでトイレに行き、その後スタンドで紅茶を飲む事が出来た。
ブダペストからペーチまで4時間。料金は1400Ft(1000円)だった。
午後1時半ごろペーチに着いた。
ペーチはハンガリー大平原の南西部に当たり、少し山の中に入った所に位置する南ハンガリーの古都である。ローマ時代はショピアナエと呼ばれていた。昔からキリスト教が栄えたが、1543年から1686年までオスマントルコの支配下にあった。現在も商業、手工業、学問が盛んである。
9−2 ペーチの町で宿を探す
バスターミナルに着いてガイドブック「地球の歩き方」を広げる。目星をつけておいた安ホテル「クバルネル」のあるサーモジイビュレン通りを、バスの運転手に教えてもらって歩き出す。
ターミナルから大通りを渡ったすぐの所にあった。しかし、レストランに入って主人に聞くと「もうやってない」と言う。がっかりした。
主人が
「フェニックスホテルへ行くと良いよ」
と教えてくれた。もちろん英語も日本語も通じる訳はなくマジャール語だが、相手が言ってる事は何となく分かるものだ。
しかしフェニックスは高いので、バスセンターに戻り、その横のマーケットでリンゴを買って食べながらもう一度ガイドブックを調べ、「ヤーノシェ・ピンツェ」というホテルを探す事にする。地図をよく見て、おおよその街の地理とホテルの位置を頭に入れた。
また歩き始める。街路には人々が溢れ、陽光は木の葉の中でエメラルドに輝き、空気は爽やかだった。
歩く程に、ペーチが実に美しく魅力的な街である事が分かって来て嬉しかった。若者が非常に多いのは、この町が昔から学問で栄え、今日も大学がたくさんあるからだ。
レストラン前の街路にはイスとテーブルが並べられ、人々がティーやビールやワインを飲みながら憩っていた。ブダペストの人々は忙しげだったが、ここの人々はのんびりと時を過ごしている印象を受けた。
汗をかきながらメインストリートを上って行く。城壁を出た所で、目指す「ヤーノシェ・ピンツェ」の看板を見つけた。
矢印の方向に少し行った所にきれいな家が建っていた。庭もよく手入れされている。そこがペンションだった。
丁度カミさんが外にいたので声をかける。しかし、
「今日は空いてない。明日は泊まれます」
という返事だった。「トゥモローOK」という単語だけ英語で、後は全てマジャール語だ。
「どこか他にホテルを知りませんか?」
と日本語で言ってノートとペンを彼女に渡す。
彼女はうなずいて、ホテルの名前と住所を書いてくれた。それには「MiNi HOTEL KOCZiAN4:2」と書いてあった。私達は彼女が指差した方へ向かって歩き始めた。
肩の荷が急に重たくなったような気がした。
9−3 小さなレストラン
途中でベッド印の看板があったので、そちらの方へ行ってみた。しかし着いてみると巨大な高級ホテルで、ガラス越しに制服のボーイやフロントマンの姿が見えた。
汗と埃にまみれた姿で、リュックを担いでそんな所へ乗り込む勇気も無かったので、スゴスゴと引き返した。
いささか疲れて、途中にあった町外れの小さなレストランで昼食をとる事にした。目立たないが、外も中も清潔で感じが良かった。
若いウェイトレスが一人いた。アンネ・フランクリン(アンネの日記)にそっくりだ。彼女も感じが良い。マジャール語もドイツ語も分からないと知ると、英語のメニューを持って来てくれた。
しかし英語のメニューは読み慣れているものの、実態が頭に浮かんで来なかった。私もだいぶ疲れていると思った。
入口の所に料理の写真があったので、彼女を呼んで写真の中から美味しそうな料理を選んで指で示すと、ウェイトレスは嫌な顔もせずに「わかったわ」とウインクしてみせた。私達はワインと2種類のメインディッシュ、それと紅茶とソーダ水を注文した。
ワインをチビチビ飲んでいるうちに、テーブルに料理が運ばれてきた。私達は2皿の料理を見て感激した。これぞハンガリー料理というのがジャジャーンと登場したのだ。
それにしてもメニューはチンプンカンプンだ。
「CSiRKECSiKOK A LA CHEF」
A LA CHEFはわかる。シェフのお勧めの意。するとこのCSiRKE・CSiKOKは何だろう。料理を見てすぐ分かった。チキンの胸肉の事だった。(CSiRKEはチルケと発音。鶏のこと)
「TONHALAS PALACSiNTA」
これは何であるか?後ろのPALACSiNTA(パラチンタ)はハンガリーの代表的なものでいわゆるクレープであるが、TONHALASが分からない。これは中に挽肉を詰めたクレープの上にマッシュルームのソテー(ソースは独特)が掛けられていた。豆のサラダが添えられていた。
他に赤カブの酢漬けのサラダ一皿と大盛りのフライドポテトもあった。特にシェフおすすめの鳥の料理は美味しかった。
食事を済ませてから会計してもらった。トータルで750Ft(フリント)。日本円で600円くらい。信じられない値段だ。日本だとこの10倍はするだろうし、ウィーンだと8倍くらいは取られるだろう。非常に安い。
これで私も、この地にとどまる事が出来そうだと思った。マジャール語を覚え、マジャールの料理を知り、ハンガリーの文化を多少なりとも知り、そして絵も描けるのではないかと思った。
9−4 裏通りの民宿に泊る
店を出てからヤーノシェピンツェのマダムの教えてくれたMiNi HOTELを探し、探し、歩き始めた。
そのホテルはKOCZiAN4:2(コチア通り)にあった。ペーチの旧市街は、端から端まで歩いてもせいぜい30分程度で、中心部へはせいぜい15分も歩けば着いてしまう。
ホテルの看板を見つけた時はホッとした。曲がりくねった横町にある目立たない普通の民家だ。
入口のベルのボタンを押すとドアがサッと開き、小柄でがっちりとした老人が現れた。ハンチングをかぶった名優アーネスト・ボーグナインを思わせる。彼は
「シュプレヒェン・ドイチェ?(ドイツ語は喋れるか?)」
と聞いた。
私は手を広げ、首を振ってみせた。
「ま、しょうがねえな」
と老人は笑い、それでも後はドイツ語で色々と説明してくれた。ドイツ語なら外国人に少しは通じると思ってるらしい。こちらも言葉は分からずとも平気だ。
国境をルーマニア、ユーゴスラビア、ウクライナ、チェコスロバキア、オーストリアと接する小国ハンガリーの人々は、常に言葉の分からぬ外国人と接しているから要領を心得ている。老人はカレンダーを取り出し、何日泊まるかと身振り手振りで聞く。私がカレンダーの数字を指で示して、4月24日から4月27日まで泊まり、4月28日に出発するのだと身振り手振りで言うと、すぐに理解した。
パスポートはチェックしただけですぐ返してくれた。その後部屋を見せてくれた。ホテル代を払う。全て前金だ。1日二人で3500Ft(2500円)だった。交渉すると4泊分の代金、全部で14000Ftのところを13000Ftに負けてくれた。
私達の借りた部屋はツインルームで広さは6畳くらい。ベッドが2つ、ストーブ、タンス、机といす、それに白黒だがテレビもあった。
造りはスペイン風で中庭があった。壁も漆喰で白く塗ってあり、壁には鉢植えの花が飾られていて綺麗だった。
中庭に面して、私達の入り口のドアと小窓がある。ドアを開けて中に入ると6畳くらいの小部屋があり、椅子とテーブル、冷蔵庫が置かれていた。
その奥は水洗トイレ&シャワールームで、栓をひねるといつでも熱い湯が出る。
その部屋の横のドアを開けるとそこが私達の部屋で、反対側にもう一つ部屋があった。
中庭の外れに自由に使える共同のキッチンルームがあり、そこで料理をしたりお茶を沸かしたり、食事が出来た。
キッチンルームの入り口の傍らはブドウ棚で、下にはイスとテーブルが置いてあり、私達は暖かい日はよくそこでお茶を飲んだり、食事したり、手紙を書いたりした。
日中の暑いような時は部屋に引っこんで昼寝した。中庭の奥はガレージで、キッチンルームの向かい側は花畑で、老人はせっせと花の手入れをしていた。こうして見ても、この家は中庭がかなり広く、思ったより部屋数も多いのだ。
部屋の隅にリュックサックを降ろし、ベッドに宿探しで歩きつかれた体を横たえ、しばらくじっとしていた。
ペーチ、この町はすでに私の心を捕らえた。私はこの街でなら絵が描けるに違いない。北海道の下川を出発してから早くも3週間、思えば遠くへ来たもんだ。
昼寝して、夕方から外出した。ホテルは旧市街の外れにあるが、中心部までは歩いて10分ぐらいで行けた。
ホテルの周囲には、町の人達がたむろする酒場やレストランや八百屋などがあり、中心部に行くと観光客の出入りするビアホールやレストランやデパート、それにマクドナルドが目立つ。
ハンガリーは東欧の中では一番早く自由化に踏み切った国だけに、物資は思ったより豊富で、人々の服装もカジュアルで(ジーンズやスカートが目立つ)、私達の方がよほどダサかった。マイカーも目立った。ここでは車を手に入れる事は夢でなくなっている。
町の中心部を抜けて外れに近い所で、そんなに高くなく感じの良いレストランを見つけて中に入った。メニューはマジャール語。チンプンカンプン、まるで判じ物だ。それでも少し慣れた。全体にハンガリー料理は手がこんでおり、美味である。
家に帰り、厚いシャワーを浴びた。時計は9時頃だ。昼間の疲れで眠くなり、ベッドに入る。
ウィーンでもそうだったが、私達は家の入り口の鍵と部屋の鍵を最初に渡されているので、出入りは何時でも自由であるから気が楽だ。