7 オーストラリアの台所事情
2002年2月23日 土曜日 晴れ
サラマンカ市場は早朝から人で一杯だった。なんでも売っている。
ウェハウス(倉庫)の広場とゆうか広い通路(1km)に露店がひしめきえらくにぎやかで楽しい所だ。あちこちでストリート・ミュージシャンや手品師がアトラクションをやっていて、人がきが出来ている。
ジュディとピーターと私は朝の8時頃出かけ、市場でパーティーのためのfoodの買出しをした。
野菜市場も開かれ、新鮮で豊富な野菜が山のようにあった。そこはラオスの難民が商っている。民族服姿の女性もいた。
新鮮な瑞々しいコリアンダー、それとネギ、メロンみたいにでかいツヤツヤの赤ピーマン、スピニチ、トマトなどを買ったが驚くほど安かった。
ホバートはかつて捕鯨の基地として栄えた港でサラマンカ市場の古めかしい石やレンガ造りの倉庫群はその名残なのだとジュディーが教えてくれた。コンビット(囚人)が建てたものであるらしかった。
コンビットはかつて英国本国から送られてきた囚人の事で、彼らなしにはオーストラリアの歴史も今日もあり得ない。
リフュージューは難民の事で、20世紀後半にベトナム、ラオス、ビルマから人々が流れ込んだ。
他にはタイ人、日本人、中国人、韓国人もいる。黒人もいるが数は少ない。ネイティブのアボリジニも時々見かける。
しかし、白人が大半を占めカラードは少ない。タスマニアも白人の国である。
そのあとホバートの船着場に行き、ピーターが刺身用の魚の切身を買った。岸にもやったいくつかの舟が魚屋で獲れたての魚を売っている。
魚やエビをカゴに並べて売っているわけでなく、船の中には冷蔵庫と冷凍庫がズラリと並び、その中に入れてある。看板や黒板に商っている魚の種類、今日入った海産物と値段が記されているので、それを見て買う。
そこでキハダマグロとシイラ、それにイカとエビを買った。全部刺身用だが値段は日本で買う半分以下であった。
つくづく日本は食料品の高い国だと思う(酒も含む)。
ついでに言えば、家もべらぼうに高いし、アパートもレストランも交通費もやたらめったら高い国である。経済大国が聞いてあきれる。
こちらは、給料所得は日本と同じだが、食料、家、交通費、光熱費、電話料金とかが安いから、暮しは豊かであると思う。人々の生活に余裕が感じられる。
今のところタスマニアではホームレスはほとんど見ない。
8 ホバートで教育問題を考える
2002年2月25日 月曜日 晴れ 29℃ 暑い
引越パーティーも無事終った。
午前中、自転車にラックを取り付け、サイクリングバッグを前に2つ、後に2つ装備した。ポンプのアタッチメントと性能を調べたがOK、ヤレヤレ。
午後から街に行き一人で買物。
日本人、中国人、南アジア人の若者をよく見かけるがどこの国の人間かはまったくわからない。学生がほとんどだ。
自転車屋でパンク修理キットとオイルを買った。
それにしても今日は暑い。快晴で日ざしが強い。オーストラリアでは皮膚癌になりやすい。火傷もしやすいのでケアが必要だ。
店に入り、コーラのボトルとサンドイッチを買い、公園の木影のベンチで昼食。風が気持よかった。
寒い国から来たから、暑い所にしばらくいると頭がクラクラしてくる。
一時間くらい休み、港のさん橋に停泊している3本マストのエンデバー号を見に行く。夕方に出航の予定で、見物人や関係者がたくさん来てる。エンデバー号のスケッチをした。
そのあと、ポスト・オフィスでT・Cを両替し、タスマニア観光局のオフィス「サービス・タスマニア」に行き川と湖での「釣り許可証」を入手した。1年間有効で50A$である。
4:30分 エンデバー号が大砲を撃ち鳴らし出航した。タヒチに寄りケープ・ボーンを廻ってブラジルに行く。
5時に、モントメゴリィ・ホテルのパブでピーターと待ち合わせていたので急いで行った。着いた時は汗だくだった。
ピーターはオーナーとビールを飲みながら話していた。オーナーはこの間のピーターの引越パーティーの時に来ていたスティーブである。
ホテルもスティーブが経営している。若い時に日本にテニスのコーチで来ていた事があるので日本をよく知っているし、日本が好きらしい。
一緒にビールを飲みしばらく話をした。落着いた感じのパブ、スティーブの人柄もいい。
6時すぎに、ピーターの家に帰る。ピーターは自転車、私はバスで帰った。
7:00、私はシャワーで汗を流した。
夕食は家の外庭でバーベキューをした。
暗くなりかけた頃(8時頃)急に足元が、急にかゆくなった。どうもモスキートではなく犯人はヌカガのようだ。タイガーバームをジュディの言うように塗ってしばらくすると治った。
今日はTシャツでずっと外にいたので、かなり焼けた。ジュディーがUVクリームはここでは欠かせないのだと言った。
明日は再び街に出て、最終的な買物をすまし、あさっていよいよ自転車旅行に出発だ。
ピーターは短大で主としてアジア人の学生に英語を教えている。
日本人だけの学生の時は、ペチャクチャと話ばかりしていて授業にならないと言う。他のアジア人(中国、韓国、タイ、など)と一緒の時はお互いに英語でしかコミュニケイトできないので大丈夫だそうだ。
今日は日本人だけ(30名くらい)の授業を受けもったので、授業がうまく出来ず、まったく頭に来たと怒っていた。私はいささか日本人として恥ずかしく思った。高校生以下の外国人に英語を教えるのは大変なようである。ストレスがたまるとピーターは言っていた。
教師とゆう仕事はけっこう大変な仕事だ。家に帰っても明日の授業などの準備や計画を立てたりしなければならない。
ピーターも生徒の問題をかかえている。いじめもあるそうだ。日本だけかと思ったらそうでもないようだ。
先進国はどこでも同じ悩みを抱えている。人間は生活が楽になると助けあおうとしなくなるし、他人の不幸には無関心になりやすい。貧しいうちは助け合う。しかし極端に貧しい場合は喧嘩ばかりする。だから、ほどほどに貧しくてちょうど良いのかもしれない。
子供の社会(そんなものがあればの話だが)は親の社会の反映である。子供達の間に問題があるとすれば親達の間、社会自体に問題があるのではないのかと思う。
学校を、教育制度を責める前に親自身をなんとかしなければ始まらないだろう。
いじめとか性犯罪とかセクハラとかゆう問題が新聞やテレビをにぎわすようになったのは言うなれば経済成長の結果である。繁栄する社会ではだれしもが幸福になれると思ってしんぼうし頑張ってきたのに、結果がこれではまったく残念である。
個人の責任を社会のせいにしていたのでは、いつまでたっても良い意味での個人主義は育たない。個人主義が未熟である間は、子供はいつまでたっても大人にはなれない。
日本の親は人間としては未熟である。ホバートの街で日本人や中国人の若者をよく見かけるがこちらの白人の若者と比べると全体に子供っぽい。
9 自転車で長い旅に出発する
2002年2月27日 水曜日 自転車旅行始まる。
現地で物資を調達し準備をととのえるのはけっこう大変だった。
1990年の自転車旅行ではマドリッドで準備をととのえた。あの時も大変だった。日本みたいに一ヶ所でまとめて調達できるような店はない。バラバラだから、それらの店を探して回るだけでも時間がかかる。
ジュディーとピーターの協力を得て、用意がととのい、出発となった。
朝、仕事に行くピーターと握手して別れた。
10時頃、車に自転車と荷物を積み、ジュディーの運転で、出発した。途中の町のスーパーでサラミソーセージとパンそれにバターとチーズを買った。今日、行くマライア島では食料の調達は不可能だ。
なにしろ人間がほとんど住んでない自然公園で家も舟着場付近にあるだけだとゆう。もちろん店も島には無い。無人島みたいな島だ。
昼頃に島へゆく船の出るLouisville(ルイスビル)に着いた。チケットは往復、自転車の料金も含め、25A$(1800円くらい)だった。
こちらは食料や交通費、光熱費は日本より安い。電話料金はまるでタダみたいに安い。だからか知らぬが、ジュディーもピーターも実に多くの長電話を友達とやっている。けっこう、それがストレス解消に役だっているようだ。
午後1時に、船は港をはなれ、島へと向った。見送ってくれたジュディーと手をふって別れた。
船は小さな連絡船で、せいぜい50人で一杯になる。船のスキッパーは気さくなオージー。言葉にかなり土地なまり(漁師言葉)があって声はやたらとでかく、オホーツクの漁師さん達の事を思い出した。
--エンジンの音や船をゆさぶる波の音が彼らの声を大きくしたのだろう。海の上で仲間の船と言葉を交わす時も大声じゃなきゃどうしようもない。だから、国は変っても、漁師の声はでかい。
面白い事に、波の荒い海と波の静かな海を相手にする漁師とでは性格まで違う。波の荒い土地では性格も荒い。もちろん人間はいいのだが。--
島に着くと、そこには公園事務所がポツンとあった。車、オートバイは全島走行禁止と書いてあった。
係員がいないので待つ事にした。急に雨がふり出し、子供達が事務所の中に逃げ込んできて、にぎやかになった。そのうち雨もやみ、またカラリと晴れた。
3時すぎに係の人がやってきて事務を始めた。
キャンプしたいのだとゆうと、ここから自転車で1時間くらい南にゆくと無料のキャンプ場があり、水もあるとの事だった。事務所の裏にオーガナイズドのキャンプ場があるが、そこは有料(300円くらい)なので、係員の教えてくれたフレンチズファームとゆう無料キャンプ場に向った。
車がやっと通れそうな幅のラフロードで、アップダウンし曲がりくねっていた。巨大なユーカリの森の中をどこまでも続く。キャンプ用具と4日分の食料を積んでるので重装備もいいとこで登りは大した事ないのにキツかった。下りはスイスイで気持ちいいが砂に突込むとヤバい。
うっそうとした巨木の森だが、所々に草原や川や沼が姿を見せた。途中、まったく人に会わなかった。
草原や森の影に野生のカンガルー、ワラビーがたくさんいた。奇妙な鳥もたくさんいて、不思議な声で鳴いていた。まるでいきなりジュラシックパークに迷い込んだような感じだった。
ユーカリの奇妙な形をした実がたくさん落ちていた。めずらしいのでそれらをひろったり、写真を撮ったりで仲々進まなかったが、そのうち夕方にフレンチズ・ファームの無料キャンプ場に着いた。
草地の真中に昔風の板造りのハウスがあった。私がテントを張ろうとしていると中から女性のバックパッカーが出てきて、「今夜は雨が降るから、ハウスの中で寝る方がいいですよ」と教えてくれた。
そのハウスは無人ロッジみたいなもので、中には部屋がいくつかと暖炉があった。ハウスの後ろの外側には天水タンクがあり、水があった。寝る場所と水が一度に手に入ったのでうれしかった。
中にはもう一人女性バックパッカーがいて「今日は」と言って笑った。
私が空いてる部屋でスリーピングバッグを広げ夕食の準備をしていると「私達これから海の方へバードウォッチングに行ってきます」と言って2人は出かけた。彼女らが使っている奥の部屋にはスリーピングバッグが広げられ、ザックが置いてあった。
私はインスタントラーメンに玉ネギとクスクスを加えて簡単な夕食を作った。タイ製のインスタントラーメンはスパイシーでけっこういけた。クスクスはモロッコの料理だから、タイとモロッコの合体とゆう奇妙な組合わせになったが、お腹は一杯になったし、体もあったまった。
周囲が暗くなり、星が輝きはじめた。こちらでは夜8時くらいが日暮れ時なのだ。
携帯ラジオのスイッチを入れ音楽を聞きながら、インスタントコーヒーを飲んだ。ペン・ライトの光で日記をつけた。そのあと、寝袋にもぐり込んでねむった。
彼女らは、すぐ帰るような事を言ってたが10時をすぎても帰って来なかった。道に迷ったのかと心配になった。なにしろ、ここはユーカリのジャングルで全くのワイルダネス・エリアなのだ。
一晩森の中で寝ても死ぬ程の寒さではないし、恐しい動物がいるわけでもないから大丈夫だろう。明日になっても帰ってこないようならレインジャーに知らせればいいだろうと判断してねむった。
昼間のつかれで泥のようにねむり、気がつくと朝だった。
(つづく)