隠れ家的レストランモレーナのインドカレーと世界を放浪したマスターの旅

マスターの冒険旅行記

ハンガリーへの旅 1

1−1 小さな荷物で旅に出る

1997年4月15日
 モスクワ行きの飛行機は地上を離れ、私と妻の二人旅が始まった。軍用機を旅客用に改造したと言われるアエロフロート機は上昇する乱気流の中で揉まれるとガタガタと大げさに震えてみせた。
 椅子のペンキは所々剥げ落ち、椅子のカバーは少しばかりほつれ、隅っこには埃が溜まっていた。しかし、日本(成田)からウィーンまでの往復チケット代は格安(2ヶ月オープン。9万6千円)なのだから文句は言えない。ヨーロッパまで往復で10万円足らずというのは、それにしてもべらぼうに安い。
 なんだか悪い事が起きはせぬかと、一抹の不安が胸をよぎる。
 私は北海道の北の方の小さな町でレストランを始めて一年半になる。冬は暇だから、2ヶ月ばかり店を閉めて旅に出ることにした。店が潰れるかも、という不安は無視。
 昔から旅に使用している登山用の小型のリュックサックの中には、画帳と水彩絵具一式が入ってる。お客さんや友人らには、料理研修と絵画制作の為の取材旅行などともっともらしい事を理由にしているが、私達の本音は「旅がしたいから旅に出る」程度のものなのだ。別に有名観光地を見たいとか思わぬし、また、珍しい土産を買いあさる気もない。行方定めぬ気まま旅だから、荷物は最小限しか持たない。
 私は1974年にリュック一つを肩に世界一周の放浪に出かけたが、荷物の量も旅のスタイルもあの頃といささかも変わらない。その頃私は30歳だった。変わったと言えば、髭に白いものが混じり、体のあちこちがくたびれて来たくらいなものだ。
 ヒラリーがエベレストに登頂した後で「なぜ山に登るのですか」と聞かれて「山がそこにあるから」と答えた話は有名だが、私の旅もそんなようなものだ。「なぜ旅に出るのか」と聞かれたら、「道がそこにあるから」とでも答えるしかないだろう。
 俗世間一般では、大金を投じてわざわざ苦労をしに行くような行為がなかなか理解できない人間も多い。そういう人間にいくら説明したところで、疲れを覚えるばかりだ。ヒラリーも、そんな気持ちだったのではないかと思う。金を儲けたり貯め込んだりする事以外に、人間を夢中にさせるものがこの世には結構あるのだが…

1−2 ロシアの印象

 
 シーズンオフとあって、機内はガラ空きで窓際に座って外を眺めたり、空席を利用して横になって眠ったりする事が出来た。
 日本時間ではもう夜の8時を過ぎているのに、丸窓の外から差し込む太陽の光が眩しい。これは飛行機が西に向かって、つまり太陽に向かって飛び続けているためだ。それでも夜の11時頃には無事モスクワ空港に着いた。まだ明るい。モスクワ空港の時計は午後6時を示していた。私は自分の時計を取り出して時間を合わせた。
 戸外は寒かった。全体にどこか暗いムードだ。
 税関では長い間待たされた。ホテルからの迎えのバスもなかなか来ない。何の説明もなく、まごつく。サービスの悪さと能率の悪さはここでは昔からだが、ペレストロイカから7年も過ぎたというのに相変わらず酷いものだ。いささかガッカリさせられた。
 ホテルは目の前にあるのに、結局私達がホテルの部屋に入って寛ぐ事が出来たのはそれから2時間後だった。時計は9時を回っていた。
 空港ホテル「ノボテル」は新築で小奇麗なものだった。部屋には清潔なバスルームが付いていて栓をひねれば何時でもお湯が出たが、ホテル側のサービスは決して良いとは言えない。
同じ機に乗り合わせ、今夜このホテルに泊まる日本人客は私達の他に二人いた。一人は若い女性のSさんで、もう一人は私より少し年上のおじさんのA氏である。
 SさんもA氏も旅のベテランだった。A氏は1ヶ月の予定でトルコを旅するとの事。Sさんは2ヶ月の予定でトルコとアフリカを回る計画だという。旅慣れているらしく、荷物はリュック一つだ。話を聞いてみると、A氏のような人も珍しいがSさんもそうザラにはいない旅行家であると思った。オフシーズンにはこんな旅人によく出会うものだ。
 シャワーを浴びてから下のロビーに行こうと思ったが、階段は見当たらなかった。エレベーターも乗り口が見つからなかった。こんなホテルは初めてだ。全てのドアと通路がロックされている。電話をかけてもフロントからの応答もない。メイドに聞いても知らん顔された。これでは軟禁されている様なものだ。びっくりする程警戒だけは厳重だ。考えてみれば、それは旧ソ連の体制そのものではないか。
 結局下のロビーには行けず諦めた。下のロビーの奥にはレストランもあるが、ベラボウに高いし、どうせサービスも悪いに決まってるから、レストランで夕食を取るのは止めた。私と妻は、日本を出る時母が包んでくれたおにぎりと漬物でおざなりの夕食を済ませた。
 それにしても、部屋の時計と私が空港で合わせた時計と1時間以上もの誤差があるので驚いた。どちらが本当なのか分からない。(後で、空港のが間違っていたのが分かって呆然とさせられた)

2−1 ウイーンの街で宿を探す

1997年4月16日
 メイドがルームに運んできた朝食を済ますか済まさぬうちに、私達はロビーのカウンターに連れて行かれた。そこで飛行場からの迎えの車を待たされた。この国では、待つ事と待たされる事を学んだ。
 社会主義とはそういうものだろう。一部の特権階級を除いて他の大部分の国民は、常に売り場の前に行列を作って待たねばならない。共産党独裁の社会主義国家になってから長年にわたり培われてきたこの体質は、ペレストロイカの後もなかなか良くはなっていなかった。
私はガッカリする思いでモスクワを後にした。
 私達を乗せた飛行機は、午後1時半に古都ウィーンに着いた。飛行場に着くと自由主義のオープンなムードに一気に包まれた感じがした。
 ロシアでのあれほど物々しい入出国が、ここでは悪夢の様に思えた。オーストリーでは入国時のチェックも一分。あっけないくらい簡単だった。
私達は籠から放たれた鳥のような気分だった。モスクワにはもう行きたいと思わなかった。
 私達の旅は出たとこ勝負の気ままな旅だから、ウィーンにホテルを予約してあろう筈もない。さてと、今夜はどこに泊まるか?
 とりあえず、私は妻を連れて空港内の両替所に行き、200ドルをシリングに変えてもらった。
それから、その前にあったカフェテリアの白い椅子に納まった。オーストリーの民族衣装を着た中年のホステスさんが、私達のテーブルにクリームのたっぷり入ったウインナーコーヒーとビールを運んでくれた。サービスもキビキビしていて愛想も良い。国によってずいぶん差があるものだと、またまた驚く次第であった。
 モスクワは私が20年前に行った時、それから7年前に行った時、そして今回も大差ない…。早く民主的な、自由な国になってほしいと願うしかない。
 カフェテリアで1杯の良く冷えたビールを飲み干す頃には気分も落ち着き、どうしたら良いかも分かってきた。シリングがどの位の率かも飲み込めた。
カフェの近くのインフォメーションの隣の宿泊先紹介所で宿の手配をした。自分の泊まりたい地区と予算を言うと、受付の女性は
「こりゃ難問ですね」
と言いながらも探してくれた。
 私の条件はオペラ座に歩いて行ける事、ツインで600シリング(約6000円)程である事。常識的にはこの地区ではこの2倍はする。3日泊まるという条件で800シリングの宿を600シリングにしてもらった。オペラ座に歩いて行ける場所なら、大使館でも他の劇場でも有名なステファン教会でも国立博物館でも、必要な所は大抵歩いて行けるから便利なのだ。
 私は20年ほど前に一度ウィーンに来た事があり、1週間ほど滞在したので少しは覚えているかと思ったが、ステファン教会に見覚えがあるだけで他は全て忘れていた。全てが初めて見るような気がした。

2-2


 宿が決まると、案内所のマダムは市内の観光地図を一枚私にくれた。そして、そこにある宿の場所に赤い丸印を書き入れて道順を説明してくれた。
 今は昔と違って、英語がどこでも通じるので楽だ。昔来た時は、インフォメーションを一歩離れたら英語は全く通用しなかったのだ。あの時、独語が喋れぬ私は一度にオシとツンボになってしまった気分がした。大いに困ったものだった。今は楽になった。
 マダムに教えてもらったとおり、ヒルトンホテル前のエアターミナルセンターでバスを降りて、地図を片手にテクテク歩いた。曲がりくねった建物の谷間を縫って、自分の勘を頼りに歩いてゆくと15分くらいで着いた。
 入口のホーンのボタンを押すと、英語で
「どちら様ですか?」
と聞かれた。私は
「日本人のツーリストだ」
と告げた。何の応答もない。悪戯だと思われたか、それとも全く相手に通じなかったのだろう。私は
「エアポートのインフォメーションで、こちらのペンションを紹介頂いた者ですが」
と英語でもう一度話した。相手はそれで理解できたらしく、カチッと音がして入口のドアが内側に開き、若いメイドさんが目の前に立っていた。
 玄関の鍵と部屋の鍵を渡された。以来、鍵との格闘が始まったのだ。ヨーロッパはどこでも鍵が掛けてある。玄関はもちろん、家の中でさえ部屋のドア、キッチン、バスルーム、戸棚から冷蔵庫に至るまで鍵が付いている。
 戸締りが滑稽なくらい厳重で、日本から来ると些かアホらしくもなるし、ウンザリさせられる。どこかで誰かがカチャカチャと、鍵を開けたり閉めたりする音が一日中聞こえる。
そこまでしなければ生活できぬとは、不自由千万だ。でも、それがヨーロッパなのだ。
部屋は狭かった。それでもツインベッドと箪笥、机、洗面台、パネルヒーターが付いており、暖房がよく効いていて暖かかった。
 ベッドに身を投げ出すと、日本を出発してから今までの緊張から解放された気分だった。そのままうとうとして、しばらく眠ってしまった。

2−3 見知らぬ街を歩き、美味しいものを食べる


 起きた頃は夕方で、空腹を覚えた。とりあえず二人で町へ出た。
オペラ座界隈は、東京でいうなれば銀座みたいなものだ。私達のホテルのある場所は、差し詰め銀座の裏通りに当たる。レストランやカフェはいたる所にあるが、食料品店は少ない。それでも夕食用のパンとサラミソーセージ、チーズ、ビール、ワイン、オリーブ、オレンジなどを探し出して手に入れた。
 帰りしなに、カフェテリアに入ってエスプレッソのウインナーコーヒーを飲んでケーキを食べた。ウインナーコーヒーが25シリング(250円)。ケーキもそれくらいだ。
カフェテリアはどこにもあって、パン屋とかお菓子屋さんを兼ねている。だんだん物価が分かってきた。日本と大差ない。
 カフェは専門店で、どこでもテーブルに白いクロス、贅沢でシックなインテリア、白いワイシャツに黒のタイ、或いは白い上着のボーイがいて洒落た感じ。新聞なども置いてあり、ワインやビールも飲める。ケーキも色々な種類のがガラスケースの中に並べられ、自分の好きなものを指させばボーイが運んでくれる。
 店内に入ったらまず空いている席に座る。ボーイが来たら注文する。言葉が分からなくても大丈夫だ。コーヒー1杯なら指を1本立ててコーヒーと言えば通じる。紅茶の場合はテーと言えば良い。
 それが済んだら、ケーキの置いてあるガラスケースの所に行って物色する。欲しいケーキをボーイか店の人に指で示せば、飲み物と一緒にテーブルに運んで来てくれる。後はテーブルに戻って、ボーイが運んでくるのを待っていれば良い。
私は、ウィーンのカフェでコーヒーを飲むのが一番好きだ。他の国でもコーヒーくらいはどこでも飲めるが、ウィーンのカフェ程に落ち着いた、しかも寛げる所は少ないと思う。
私の言うカフェは、あくまでも土地っ子の利用している店で、観光客の出入りするような店ではない。
 カフェは高級な感じだが、それほど高くはない。ステファン教会近くのウィーン子の間で有名なカフェでコーヒーが35シリング(350円)位で飲めた。チップは支払額の10パーセント位が常識。あまりチップをはずむのも嫌味だ。身分相応で良いのである。要は礼を失しない程度をわきまえるという事だろう。

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