隠れ家的レストランモレーナのインドカレーと世界を放浪したマスターの旅

マスターの冒険旅行記

ハンガリーへの旅 2


1997年4月17日 時々みぞれと雪
 それにしても寒い。もう暖かくなった頃だと思って来たのにショックだ。
 3月中旬にしては異常な寒さだと、近所の八百屋のオジサンがぼやいていた。
その店はホテルのすぐ近くにある。目立たない小さな八百屋で、私達はイチゴや赤カブなどを時々買う。
 オジサンは英語を話せるので色々な事が分かる。オジサンが言うには「こんな寒いのは20年ぶりだそうだよ。ウィーンはね、アルプスの方から冷たい風が吹き込んで来る所なんだ」という事で、どうりで寒いわけだ。
 軽装の私達は、いくら北海道から来たとは言っても震え上がってしまった。ちょっとだけ町の中をぶらついてる内にすっかり冷えてしまい、具合が悪くなった。
 ほとんど眠って過ごした。時差ボケと長旅の疲れが出て来たらしく、いくら眠っても眠いのだ。こんな時に無理すると体調を壊す。2、3日はゴロゴロしているに限る。
起きている時はテレビを見て過ごした。日本映画「トラ・トラ・トラ」もやっていた。ドイツ語に吹き替えてあるから、三船敏郎も他の俳優も皆ドイツ語で喋っている。日本の映画なのに内容がさっぱり理解できないもどかしさ、とにかくヘンテコな感じがした。
 ドラマの内容が単純なものや粗筋を知っているものだと、ドイツ語が理解できなくても結構楽しめる。スポーツ番組、音楽番組などは言葉はほとんど何の障害もない。
音楽とスポーツに国境無しというところか。

4−1 思いがけぬ出逢い


1997年4月18日 金曜日 晴れ
 日中、気温がぐんぐん上昇して、ウィーンも平常の暖かさを取り戻したらしい。外へ出ると、新緑が鮮やかであった。
 公園や街路には人々が溢れ、老人たちがベンチに腰かけてお喋りに花を咲かせていた。町は活気を取り戻し、カフェもレストランも客で一杯だった。
日本を出てからずっと寒い思いをさせられてきたので、今日の暖かさと太陽がありがたくもあり嬉しくもあった。
 昨日歩き回ってやっと探し当てたハンガリー大使館へ午前中出かけた。入口で荷物と武器のチェック。最近の大使館はどこでも物々しい。
 判じ物みたいな申請書に手こずった。「ハンガリーでの仮の住所」なんて項目があった。気ままな旅をしている我々には、そんな当てがある訳もない。
 どうしようかと困っていると、日本人らしい人がいたので聞いてみた。彼は親切に色々教えてくれた。
 私は、その項目にはブダペスト セントラル ホテルと適当に書き込んでおいた。でっち上げだが、書き込まないよりはマシだ。セントラルホテルなんてのはどこにでもあるから、別に怪しまれないだろうと思った。
 その親切な日本人は拝崎さんという人で、年の頃は40前後、気取ったところもない人だった。ブルガリアに10年、オーストリーには7年住んでいるという。今は寿司バーに寿司ネタを卸す商売をやっている。
 今、ウィーンでも寿司バーが大流行で、市内に50件くらいあるという。その大半は中国人や韓国人で、中には白人のやっている店もあり、日本人のやっている店は数えるほどしかないのが実情だと彼が説明してくれた。
 ウィーンではピザ屋も大流行で、あちこちで見かけた。
しかし、寿司バーもピザ屋も、一般のカフェテリアやトルコ人のやっているドナ・ケバブ屋に比べると相当高い。しかし中身は大したこともない。特に、外人のやっている寿司屋は衛生管理の面で心配になる。
 ハンガリービザの申請を済ますと、12時半に取りに来るように言われた。ダブルビザ6,000円也。ベラボーだ!
 1時間ほど間があるので、拝崎君の案内で近くにある有名なカフェに行った。
 この辺の建物はどこでも、昔に建てられた石造りのネオ・ロマネスクやゴシック式で立派なものだ。カフェの中の内装もシックで素晴らしかった。天井は気の遠くなるほど高く、細長く高い窓には素晴らしいレースのカーテンが誂えてある。
 我々のテーブルにボーイが来ると、拝崎君が流暢なドイツ語であれこれ注文してくれた。
クリーム状に泡立てたコーヒーに、フレッシュを少し落としてあるメレンジェ。これは格別に美味しい。ハスカップの実がたっぷりのケーキ、これも水準以上。しかし甘すぎるきらいがあった。

4−2 古都ウイーンの建築美に酔う


 店を出ると、人が溢れていた。その向こうには、壮大な市庁舎がそびえていた。
 拝崎君に教えられるまで、私はそれを王宮だとばかり思っていた。たまに今風のコンクリートの高層建築を見るが、ここではアール・デコやロマネスクが主流で、ル・コンビジェをを思わせる現代建築はなんだか非人間的で味気なく、殺風景でしかない感じがした。
 両者を比較してみると、そこに時間の流れる速度の違いというものをまざまざと見せつけられる。
 昔の石造りの建築物は、完成するのに何十年、あるいは何百年も要している。それに対し現代建築は数年、又は数ヶ月しか要してない。ここに建築物の性格が如実に示されている。
 前者は「どうしてそこまでやる必要があるのか?」と思わせるくらいだ。壁はレリーフと彫像に埋め尽くされている。建物は変化に富んでいて、個性的と言うよりは芸術そのものだ。
 この建物の性格は何を示すかと言えば、私は貴族的性格と言って良いと思う。この私のいるホテルもそうだが、このウィーンの旧市街はノーブルな中世的な建築群によって構成され、細い道や広い通りが人間的なラビリンスを形成している。
 様々な店のショーウィンドーを覘いて歩くだけでも楽しい。素敵なレストランやカフェが軒を連ね、昼間はイスとテーブルを歩道や広場まで押し出して、人々が往来を眺め眺めながら食事や喫茶を楽しんでいる姿がある。
 夜になると照明が美しい。心が浮き浮きするようにエレガントで美しい街だ。
街中を歩いていてどこかで見たような風景だと思ったら、映画「第三の男」のロケが行われた所だと拝崎君が説明してくれた。夜の街の光と影が、あんなに美しく表現された映画もそう無い。オーソン・ウェルズがジョセフ・コットンがアリダ・バリが、街角からそのまま表れても不思議はない。
 12時半に再び大使館に戻り、ハンガリーのビザを貰った。一人6,000円も取られた。これはあんまりにも高い。
 今まで世界中の色んな国を旅したが、ビザ代にこんなにふんだくられたのは初めて。腹が立つことしきり。サギではないかと思った。
 昼過ぎにホテルへ戻った。フミコは昨日以来体調が思わしくない。昨日、寒い中をハンガリー大使館を探したりするのに長時間歩き回ってる間に風邪をひいたらしい。

4−3 素晴らしきかな人生


 夕方、拝崎君と会う約束をしていたので私は一人でメルカードの方へ出かけた。
 拝崎君の働いている日本食料品店はすぐに見つかった。その名も「日本屋」である。店内には、カップラーメンから海苔、梅干しからどんぶり、茶碗の類に至るまで何でも揃っていた。
 私は醤油を1本買い、拝崎君の仕事が終わるまで少しメルカードの中を散歩した。
ここには小さな店がぎっしり並んでいる。寿司バーからチーズ屋さんから魚屋まで何でもあった。ここなら、オリーブ一つをとっても何十種類も見る事が出来る。品物は豊富で安い。トルコ人やブルガリア人やルーマニア人マケドニア人、ハンガリー人などの外国人が目立つ。
 その夜は拝崎君の車でフミコも連れて郊外のレストランに連れて行ってもらった。ウィーンの市街地から山の方へ行く途中に、道路の両側にレストランがズラリと並んだ地区がある。客が多くて駐車スペースを探すのに苦労した。その頃にはフミコもすっかり元気になっていた。
 拝崎君の案内で、どっしりとした造りの古めかしい大きなレストランに入った。レストランの裏はそのままブドウ畑だ。
 このレストランは、自分の畑からブドウを取ってワインを作っているのであり、それがこの地区のレストランの条件なのだと拝崎君が説明してくれた。
 拝崎君は長年飲食店関係の仕事。コックをやって来ているので大変な食通であった。テーブルに掛けると、民族衣装の女性ウェートレスが来た。
 オーストリーでは白ワインが一般的で生産量は赤ワインより遥かに多い。したがって、このレストランのオリジナルも白ワインだった。白ワインを炭酸で割って飲む。実に美味い。
 それから席を離れてガラスケースの所に行き、欲しい料理を皿に盛ってもらい、勘定を済ませた。肉、魚の料理、オリーブ、チーズ、サラダなど6皿くらい。テーブルに自分で運んで気軽にワイワイと飲み、かつ食べるのである。
 店の奥の方では、チロル風の民族衣装の音楽師がアコーディオンとギターで土地の音楽をやっていて、たくさんの客で賑わっていた。我々もそんなムードの中で乾杯し、楽しい一時を過ごす事が出来た。
拝崎君が食べ物と料理の説明をあれこれしてくれた。デザートにはケーキを何種類か取り、コーヒーと紅茶を頼んだ。
 拝崎君は明日自分の車を運転してドイツのフランクフルトに出発するという。食後、山頂へ車で連れて行ってくれた。そこからはウィーンの夜景が一望できた。実に美しい。後は何も言えない…
 拝崎君にホテルまで送ってもらい、別れた。

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