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1997年4月20日 日曜日 雪が降った
フミコは体調が思わしくなく、寝たきりだ。
もう1日出発を延ばす事にした。銀行も店もみんな休みだ。
私は昼過ぎにヒルトンホテルの近くで両替屋を見つけ、200ドルをシリングに替えてもらった。その足でバスステーション(外国線)のターミナルに行き、乗り場と時間を調べ、予約を済ませてからホテルに帰った。
ホテルに辿り着く頃には体も冷え切って、ブルブル震えた。熱いシャワーを浴びて生気を取り戻す。
ホテルの受付に行って、宿代の支払いを済ませておいた。明日の出発は早朝なのだ。
6−1 ウイーンからブタペストへ行く
1997年4月21日 月曜日 晴れ
朝7時発のブダペスト行国際バスに間に合うように、早朝6時にホテルを出発。リュックを肩に、バスターミナルまでテクテク歩いて行った。
フミコは熱も下がり元気が回復してきたのでホッとした。
バスはスエーデン製の、上がガラス張りの背の高いゴージャスなものだった。バスガイドさんは親切だった。
定刻通り出発。
バスは街並みを抜けて平野の中へ入っていった。広い平野がうねりながらどこまでも続く。人家は時々村に差し掛かった時に見るだけ。村の中央には教会の高い屋根がキラリと光り、その周りに人家が固まっている。
1時間くらいで国境に着いた。ハンガリーとオーストリーの係官がバスの中に乗り込んできて、乗客のパスポートをチェックした。少し不安だった。しかしそれは数分で終わり、係官は引き上げていった。何となく緊張させられる。
昼前にバスはブダペストの中心、エリジェベート広場のバスターミナルに着いた。
大きな美しい古都。それがブダペストだった。ウィーンに勝るとも劣らない。ドナウの真珠と昔から言われて来た程の事はある。
東欧は、私達日本人にとっては馴染みの少ない所だろう。西欧については、我々はいくらでも知っている。しかしヨーロッパ人が日本を知らないくらい、私達日本人は東欧を知らないと言って良いだろう。
ベオグラード、プラハ、ソフィア、ワルシャワ、ザグレブ、それらの都市がどの国にあり、その国がどの辺りに位置しているのか正確に答えられる人は少ない。戦争が起きるまで、ボスニア・ヘルツェゴビナなんていう国の存在さえ知らない人が大半であったと思う。
それ程に我々日本人は東欧に関しては無関心であると言えるだろう。
6−2 ブラックマーケットの男
ハンガリーについて言えば、私の知識はせいぜい音楽家のリスト、ジプシーバイオリンにハンガリアンダンス、それに最近読んだ「悪童日記」の著者アゴタ・クリストフがハンガリーの出身である事くらいで、まったくお寒い限りである。
そんな訳で正直、生まれて初めて見たブダペストの街の壮大とも言える美しさには度肝を抜かれてしまった。
しかし、バスから降りてバスターミナルの建物の中に入ると、床や壁は薄汚れていた。道路のゴミも目立つ。かつての社会主義国家の特徴とも言える怠け癖が染みついている感じだ。
ハンガリーは、東欧の中では共産主義からいち早く修正資本主義に転じ、社会主義から自由主義へと転換した国である。しかし、まだどことなくぎこちない感じだ。人々の服装も野暮ったい。膨らんだコートに折り目の無いズボン、ジーパンというスタイルが多い。スーツ姿の人は非常に少ない。
上と下にかなりの格差があり、中間層が見当らない。労働者とエリートしかいないような印象を受ける。中流階級が少ないという事は、経済的にも遅れているという事だろう。
ふと気づくと、バスから降りて2、3分もしないうちにウィーンから一緒に乗ってきた乗客の姿はどこかに消えてしまい、ウロウロしているのは取り残された私達二人だけだった。みんな、迎えに来たホテルの人間や家族と共にさっさと行ってしまったのだ。
寂しい限りだ。私達は今夜泊まる当てさえ無かった。
とりあえず構内の両替所に行った。窓口でトラベラーズチェックを両替しようとすると、横から袖を引っ張る者がいる。トレンチコートを着たジャン・ギャバン風の男だった。100ドル20000Ft(フローリン)でどうだと持ちかけられた。闇ドル屋の登場だ。7年前のインド以来の登場である。
私は過去15年間も世界を股にかけて放浪してきた人間だから、自慢じゃないがこういう手合いとの付き合いは長い。レートが2倍くらいなら、リスクを踏んでも、ま、良いかとなるが、奴さんのレートは1.2くらいでとても話しにならないので断った。
とにかく、ハンガリーのブラックマーケットの事情をある程度知ってからでないと手を出せない。騙されるのが落ちだ。という訳で、私は袖を引く男を尻目に両替所できっちりと真面目に行儀良く、取り敢えず200ドルをフローリンに替えた。
男は諦めたか、振り向くともうそこにはいなかった。
なんとなく面白くなってきた感じだ。危険の臭い、赤信号、そういうものがない事には吾輩は旅をしている気がしないのだ。
6−3 宿探し
中年の女性が声をかけてきた。英語だった。
「部屋を探しているのか?」
と言うので
「そうだ」
と言うと、
「私のアパートのプライベートルームが空いている。一晩二人でシリングなら300、フリントなら500だがどうか」と彼女は言った。
再び私の中の赤信号が灯る。紹介所を通していないので心配だった。しかし私は、彼女の人柄を見て大丈夫だと思ったのでOKした。
彼女の案内でメトロに乗り、2つ目の駅で降りた。
そのアパートは丁度メトロのニュガティ駅の出口の所にあった。バスターミナルのあるエリジェベート広場も、格安航空券やインフォメーション、両替所など旅行のアイテムが集中するデアーク広場にも近く、そこまで歩いて行く事ができる。
アパートに着き、中を見せてもらった。部屋は広く、共同のキッチンとシャワールーム、水洗トイレが付き、栓をひねればいつでも湯が出た。二人で3000円だから、地の利を考えれば高くはない。
部屋が気に入ったので泊まる事にして、3日分をシリングで払うと彼女はキーをくれて、さっさと行ってしまった。騙されたのかとも思った。昔、「アパートの鍵貸します」という映画があったが、まったくそれと同じだった。
結局3晩泊まり、出る時部屋に鍵をかけ、キーは彼女のメイルボックスに投げ込んでおいた。彼女には最初に1回きりで、ついに会う事はなかった。
そのアパートは、あのロマネスク風の古い建物で8階建て、ブダペストの街を形成するあの壮大な建築群の一角を成している。日本の国会議事堂が貧弱に見えてしまう。
部屋の天井は遥か高い所にあり、ドアの高さは3メートル程もあった。部屋の広さは20畳くらいもあり、そんな大きな部屋に慣れてない私は少々落ち着かなかった。
夕方、近くのスーパーで食料を買い込み、アパートに帰って久々にキッチンで料理した。電気レンジ、冷蔵庫、テーブルとイス、それに鍋やフライパン、まな板などの調理器具、皿、コップなどの食器類、スプーンやナイフなども全て揃っているので調理する宿泊者にはありがたい。
これで1泊3000円。地の利を考えると安い!レストランでの食事にはいささかうんざりし始めていた頃なので、自炊できるのが楽しくもあり、嬉しかった。
ご飯を炊き、野菜と肉を料理し、ウィーンで買った醤油で味付けした。それと、日本から持って来た梅干を一緒に食べると、お腹の調子が大変良くなった。
フミコも体調を回復し、元気になってきた。ビールとワインで乾杯!
7 マジャールの面影
1997年4月22日 曇り 肌寒し
ほとんど一日中街の中を歩いた。
ブダペストの美しさに対する驚きは深まるばかりだ。
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1997年4月23日 晴れ 暖かい
街の樹木の新緑が風にそよぎ、葉の1枚1枚がエメラルドに輝いている。花という花が咲き競って街はマロニエの花盛り、春の到来に人々はベンチの上で目を細めている。
ドナウにかかる古風でエレガントなエリジェベートの橋の上から眺める岸辺の風光はまさに一幅の絵である。ドナウ川はきらめきながらゆったりと流れ、大きな汽船やレストランボートが滑るように河を上下していた。
私はその風景を一生忘れないだろう。ブダペスト、それは正にドナウの真珠である。
私達は、ペーチ行のバス乗り場と時間を地図を片手に歩いて調べた。
その後デアーク広場のシティバンクで300ドルばかり両替し、地方への旅行の準備をした。地方に行くと、両替のできない事も多々あるからだ。
ペーチはユーゴスラビアの国境に近い南の街であり、そこまで行くと日本円などは通用しない。シリング、ドル、マルクは通用するだろう。レートも都市と地方とでは異なる場合が多い。
一通り用事を済ませてから夕食のおかずを買ってアパートに戻ると、時計は7時を示していた。しかしまだ外は明るく、窓から町のざわめきが聞こえた。
夕食の後、パッキングを一通り済ませ明日の出発に備えた。