隠れ家的レストランモレーナのインドカレーと世界を放浪したマスターの旅

マスターの冒険旅行記

ピラニア軍団の夏休み

S商事とピラニア軍団

 昔の話になるが、東京の下町にS商事というちっぽけな会社があった。社長は40代の男でいつもトレーナーにパンチパーマ姿で体もでっかく、どこかの大学の柔道部のキャプテンに見えないこともなかった。彼は「焼きイモ屋」の親分で20人ほどの子分どもを束ね店を仕切っていた。彼はいつもニコニコしていたが怒ると怖い男だった。仲間内では「イトーのおやじ」で通っていて子分たちはピラニア軍団と呼ばれていた。
 当時私は一匹狼の焼き芋屋で、S商事にイモを仕入れに週一回通っていた。それは私のアパートの近くにたまたまS商事があったので通うようになったのである。
 子分達は会社の裏のアパートでごろごろしていて、昼過ぎになるとおやじに怒鳴られ屋台の焼き芋を売るために思い思いの場所に散って行った。屋台と言っても軽トラックの荷台にやきいもの鉄製釜を据えたもので、屋根の上にはスピーカーと「焼きいも」と書かれた赤いチョウチンが取り付けられ、夜になるとチョウチンが赤く灯った。リアカーで屋台をひく時代は終わろうとしていた。
 それにしても釜の煙突から煙をモクモク吐きながら、「石やきいもー、やきいも」と町中、団地の中や夜の飲み屋街を流していくヤキイモ屋の屋台は冬の風物詩であった。
この流していく時のセリフはピンからキリまであって、イトーのおやじのセリフは名人芸であった。
 「エーやきいも~石焼きイモ~あまくておいしいおイモだよ、ホッカホッカの焼きたてだ~」
それをエンドレステープに吹き込んだのを子分達は争って使っていた。自分の声だとドスが効き過ぎて客が逃げてしまうからであった。ヤクザそのまんまのあのおやじの顔のどこからあんな声が出てくるのだろう、と思うくらいさわやかな明るい調子のせりふまわしなのだ。なんとなく人を惹き付けるものがあった。さすがプロは違う、と私も感嘆したものだ。
 私は自分で一分間のエンドレステープに吹き込んだものを使っていた。セリフを吹き込むときそばに犬がいて吠えたので「いしやきいも~ワンワン、やきいも~ワンワン」となってしまった。これで売り歩いていると、自分には『ここ掘れワンワン』と聞こえてくる始末だった。まるで童話の「花咲かじいさん」だ。さっぱり売れないときは自分が悪いじいさんの役回りをしているような気分になった。あの犬はカテリーナという気の強いグラマーな犬で30匹以上子供を産んだ。
 石焼き芋の釜は長方形で一度に50個ぐらい焼くことができた。釜の中には大豆粒くらいの玉砂利が敷き詰めてある。その中にイモを埋め込む。しかし完全には埋め込まずに下半分だけ埋め、下の方が焼けたら途中でイモをひっくり返してやる。釜の下に薪をいれて燃やす。2時間位で焼き上がる。
 その頃には屋台は焼き芋の甘い香りに包まれる。近所の子が集まってくる。焼きたてのイモは実にうまい。二つに割ると中はクリーム色でホクホクしてまるで栗のような食感。これこそ石焼き芋なのだ。サツマイモはふかしたり、煮たり焚き火で焼いたりフライにしたりといろいろな食べ方があるけれど、自分は石焼きのイモが一等うまいと思う。私の晩飯はたいていこの焼きたての石焼き芋だったが、毎日食べても飽きることが無かった。そしてまたお腹にもよく皮ごと食べると胸焼けがしなかった。
 午後2時くらいから準備を始め4時頃焼き上がり次第出発した。途中で補充するための生のイモをセメント袋に2袋と薪を積み込んで行く。トラックのガソリンは釜に火を入れる前に、忘れず給油しておかなければならない。焼き芋屋は営業中ずっと火をたいている訳だからガソリンスタンドでは給油を断られるのだ。
 やきいもはただその辺をやたら売って歩いても売れるものではない。午後3時頃は小さな工場や問屋などが固まっているエリアを流す。工員や店員が3時のおやつに買ってくれた。そして夕方5時~6時、スーパーの手前あたりで待つ。買い物帰りの主婦が、夕飯を待ちきれぬ子供に買っていく。次にイモを補充して焼きながら夕食を済ませる。ラーメン屋に入ることもあるがたいてい売れ残ったイモを食べていた。この間に通り掛かりの客が買っていく。駅の近くで、帰宅中のお父さん達を待つ。夜9時から団地を流す。
 私はもっぱら新百合ヶ丘や向ヶ丘遊園の団地で売った。時には多摩ニュータウンのマンモス団地にも行った。子供や大人が夜食に買ってくれた。
夜11時、南武線沿いにある飲み屋街の横丁を流す。飲み屋のオネエサンや千鳥足の酔っ払いがお客さんだった。
 このように時間と場所は深い関わりを持っている。毎日同じコースを回っているうちに客の方でも覚えてくれ、やって来るのを待っていてくれるようになる。3ヶ月経ち6ヶ月経ち1年経つうちに固定客は確実に増え、収入も安定してくる。収入と言ってもサラリーマン以下だろう。なにしろボーナスとか退職金とか初めから無いわけだから。


 さてピラニア軍団の面々は仕事にあぶれて借金トリから逃げ回っている者、就職できなかった中年男、沖縄からの駆け落ち組、フリーターの若者といろいろだった。中には必死で働いて店を出す資金を作っている者もいたが、ほとんどは「飲む、打つ、買う」の三拍子揃ったロクデナシであった。昼間はパチンコに入り浸り、金がなくなると親分に泣きついて借金をする。借金をするからやめようにもやめられない。S商事のアパートはたこたこ部屋と呼ばれていた(世の焼き芋屋の名誉のために言うが、たいていの焼き芋屋はまっとうな商売をしているのである)。しかしこのピラニア軍団だけはそうでなかったのだ。一生を焼き芋屋でやっていこうなんてのはおらず、その場しのぎにやっている「烏合の衆」にすぎなかった。だから責任感もなく、客からボッタくり放題でロクでもないイモを売りつけたりする者もいた。
 たこたこ部屋は男達の駆け込み寺のようにも見えた。他に行くところが無くなって駆け込んでくる。おおかた競馬場かなんかで読んだスポニチや競馬新聞の求人欄でみてやって来るのだ。中には指名手配中で逃げ回っているやつもいる。そういう人間でもまじめに働いている分には、イトーのおやじはちゃんと面倒を見てやり、追い出すようなことはしなかった。それぞれに人生の影と裏道を歩き、知っている男達はお互いに相手の過去を聞いたりはしなかった。派手なヤクザものは決してこの商売に入ってこなかった。カッコ悪いとでも思っているのだろう。ただ「人形佐七」だけはそうでなかった。

人形佐七とタカハシ

 本名はともかくとして、仲間内からそう呼ばれている27、8の若い男がいた。彼は親分の片腕で、S商事の番頭であった。テレビに出て来る人形佐七そっくりの水も滴るイイ男だった。焼き芋屋としての腕もピカ一だった。親分の愛人だという噂もあった。ヤキイモを仕入れに行くといつも彼が応対してくれた。料金を受け取り帳簿を付けるのも彼の役目だった。
S商事は冬はヤキイモ、夏は網戸、春と秋は物干し竿を商った。私も物干し竿を自分のトラックに積み込み、春と秋は遠く北海道、九州まで売り歩いた。
 人形佐七は常に売り上げはトップだった。彼に、どうやったらそんなに売れるのか聞いてみたことがあった。彼は、女だったらしびれてしまいそうな顔に笑いを浮かべてこう言った。
「『これいくら?』と聞かれたら『この竿は千円でこの竿は三千円です』と正直に答えるだけだ」と。
そして竿のサンプルなるものを見せてくれた。それは彼が作ったもので、長さ50センチに切った竿で両端にキャップが嵌めてあった。竿の真ん中から下25センチにわたって表面のビニールがはぎ取られ、下の鉄のパイプがむき出しになっていた。竿は2本あって1本は緑色をした安物で、むき出しになった鉄パイプの部分は真っ赤に錆びて、所どころ穴が開いてボロボロになっていた。もう1本は銀色の高級品で、鉄のパイプはメッキされていてピカピカできれいなものだった。
「この2本を客に見せて『安物はいずれこうなりますよ』と説明するんだ」と彼は親切に教えてくれた。
「女達はたいてい高級品を争って買うぜ」
と言って彼はニヤリとした。私は早速同じようなサンプルを作り、旅先で彼のやり口を真似て売ってみた。しかし、彼の言うようにはなかなか売れるものではなかった。それどころか、サギ師じゃないかと怪しまれる始末だった。女達はきっと野郎の目を見てボーッとなり、何が何だかわからなくなるんだろうな、と思った。
 今度生まれてくるときには俺もうーんとイイ男に生まれてこようと思った。
さて、親分にはもう一人片腕がいた。年のころは人形佐七と同じだが体がバカでかく、単純朴訥で相撲取りにでもなったほうがふさわしい男だった。皆からはタカハシさんと呼ばれていた。
 「クリちゃん、俺よう、バンコクに行きてえな、クリちゃん、頼むよ、いっぺん連れてってくれ、バンコクの夜、いいなあー行きてえなあー。俺は両手に女の子、ウッフン、バカン、なんちゃって!もう、たまんねえなあ」
などと私の前でおどけて見せた。
「クリちゃん、一緒にバンコク行こうぜ」が彼の口癖だった。その旅はついに実現しなかったが、ある年の夏、私は彼と二人で網戸の行商の旅に出た。大宮を過ぎて桐生に着き、駅前のビジネスホテルをねぐらにして、毎日桐生の街や郊外を売り歩いた。
タカハシは人形佐七に負けぬくらい腕が良かった。ある日彼は
 「売り方のコツ教えっから一緒に行こう」
と私を誘ってくれた。私は自分の商売用トラックをビジネスホテルに置いて、彼のトラックの助手席に乗った。タカハシのしゃべりは立板に水で客を引き込みその気にさせた。さすがプロは凄いものだと感嘆した。
 でも失敗もあった。
「オイ、ここの家の網戸破れているぜ、それにだいぶ古くてガタ来てるな、よーし!クリちゃん、ちょっと待ってナ」とタカハシはある民家の前でトラックを止めて、庭にいた奥さんに声をかけた。
「チワー、網戸の張り替え、安くしときますが!」
と早速、営業を開始した。でっかい男がノシノシやって来たので中年の痩せた奥さんはびっくりしたが、すぐに体勢を立て直した。気の強い女だった。おまけに、ダンナとけんかした後らしく機嫌が悪かった。
「何言ってんのよ!でっかい図体してさ、でかい声でまくし立てりゃ人が怖がって買うと思ったら大間違いだよ」
と逆襲してきた。まるで大きなセントバーナード犬がネコにバシッと引っ掛かれてスゴスゴ引き上げる時のように、タカハシは方を丸めてハアハア言いながらそこから逃げ出した。時にはこんな失敗もするのだ。それでも
「あんな奥さんでも機嫌が良きゃあ、買ってくれたにチゲえねえ」
とぼやいていた。
 タカハシは他の連中みたいにパチンコや博打はしなかったし、毎日まじめに売り歩いた。夕方宿に戻ると一緒に風呂に入り、それから晩飯を食い、行きつけの近くの飲み屋に行った。タカハシはまるで、馬みたいによく食いよく飲んだ。「俺はクリちゃんの倍は稼いでいるから」と言って私に食事代を払わせなかった。私のことを弟分と思っているらしかった。安い店だったがタカハシは毎晩そこで1万円位使った。丸メガネの人の良さそうな店の主はホクホクしていた。酔うと、
 「俺はよう、金にぎったら、岩手の田舎に帰ってよう、ヨメサンもらっておふくろに不自由させないようにするんだ」と言ってタカハシは自分の田舎のことを良く話してくれた。売り上げから宿代と飯代を差し引くとたいして残るはずもなかったが、タカハシは決して愚痴を言わなかった。

親分と北海道キャンプ

 S商事の中庭には常にスピーカーのついたスズキの白い軽トラックが20台以上停めてあった。これは一日千円で親分が子分達に貸している営業車であった。私は自分のトラックを使用して通っていたから、親分は私を客分として扱った。親分は私のことを「栗岩さん」と呼び、私のことが気に入っているらしく何かと便宜を図ってくれた。
 モチつきの日に一度、私は親分の家に呼ばれた。こぎれいな立派な庭付きの住宅だった。奥さんは美人で良家の奥さんという感じで、どうにもヤクザの奥さんには見えなかった。家の中は清潔できれいに片付いており、子供たちはしつけが良く礼儀正しかった。そして彼は酒を一滴も飲まず、家庭では良いパパであり、料理もし食事の後は茶わんや皿まで洗った。予想を裏切られて私はびっくりもしたし、このような家庭を築いている親分に親しみを感じた。
 彼は一風、変わったところがあって「北海道に行くのが夢だ」と言って私に北海道での釣りや旅の話をせがんだ。私が十勝川源流で一時間の間にイワナを50匹釣った話をすると、彼は目を丸くして「俺をそこに連れてってくれ!」と言った。


 それは次の年の夏に実現した。私はトムラウシで人に頼まれ、丸太小屋作りを手伝っていた。親分に電話するとそうか、そうか、ヨーシ!夏休みだ!子分達も連れてくからよろしく頼む」と言い、本当にやって来た。
 夏の晴れた日に、トムラウシの山道をはるばると多摩ナンバーの白いほこりまみれのミニバスが走ってきた。親分と人形佐七、タカハシ、それに子分が5人乗っていた。車の後部には毛布やら炊事道具、テント、釣竿などが詰め込まれていた。
 トムラウシは北海道の秘境と呼ばれている。私は彼らを十勝川源流に案内した。車で行ける所まで行き、その後はテントや鍋、食料、釣り竿をめいめいが背負って山道を歩いていった。中にはサンダル履きの者もいた。山は深く目的地はヒグマの巣でもあった。しかし、音をあげるものはおらず、これも私の予想を完全にくつがえすものだった(さすがのピラニア軍団もここでは音をあげるだろうと思っていたのだが)。考えてみれば、彼らは仕事がら車での長旅や野宿に慣れているのだ。
 夕方に私達は十勝川源流の川岸にたどり着いた。川岸と言っても深い谷で、清冽な水が音を立てて流れる谷川のほとりだ。
皆は、親分をはじめキャーキャー言いながら荷物を放り出して谷川に飛び込んだり、川の中に顔を付けて水を飲んだりした。子分の中には「こんなキレイな水は初めて見た」と言う者もいた。「おっ!いるぞ、魚だ、魚だ!」と言う声もあちこちから聞こえた。
「暗くなる前にテントを設営し、薪を集めてキャンプの準備をしましょう」
と私が親分に言うと、彼はうなずき
「野郎ドモ、聞いたか、すぐにキャンプの準備だ!トメ、マツ、ケンは薪を集めろ、テツとタカハシは晩飯の支度をやれ!人形とヤマグチは栗岩さんを手伝ってテントを張れ!」
と怒鳴った。良く訓練された兵隊みたいに、子分達はキビキビと働いた。
 テントを張ると言っても、そんな気の利いた物がある訳でもなく、大きな工事用の青いビニールシートが我々のテントだった。まず、三間×三間のビニールシートの四隅を固定する(石や立ち木を利用、ロープで縛る)。次にその辺の細い立ち木を2~3メートル位の長さに切って支柱を3、4本作る。これをシートの下に入れて要所要所に立てる。これでテントは完成だ。これは私がイランやアフガニスタンを旅している時に砂漠のベドウィン(遊牧民)から学んだ方法である。このテントは通風が良いから、中で焚き火が出来る。風や雨がひどい時は支柱の数を減らし、シートの縁を下げてやるだけだ。


 来る途中の山道で、フキが乱暴に倒された所が何ヶ所かあった。ヒグマがフキを食べた跡だった。道の真ん中にてんこ盛りのヒグマのフンもあった。そんなのを見て、さすがの親分とピラニア軍団も青くなった。しかし「帰りたい」と言うものは一人もいなかった。私は万一のヒグマの襲撃に対する防備の対策は立ててあった。人数分の竹槍を作ってくるように親分に言っておいたのだ。S商事には竹の物干し竿がいくらでもあったのだ。タカハシは
「熊が来たら、くし刺しにしてバーベキューにしてやるぜ」
と言って、ガハハと笑い竹槍をしごいてみせた。私が
「熊の肉は美味いもんだ」
と話すと
「そいつはありがてえ」と彼はごくりとつばを飲み込み、皆は笑った。
夜になり谷間は真っ暗になり冷気が押し寄せてきた。
 豪勢な焚き火を皆で囲んで、ジンギスカンをたらふく食い酒をイイだけ飲んだ。男達の顔は焚き火に赤く照らされ、竹槍を抱え込んだ姿はまるで「山賊」に見えた。時代が時代なら我々はほんとに山賊にでもなっていたんじゃなかろうか、と思った。グデングデンに酔っぱらった子分達がそのうち取っ組み合いのケンカを始めると、親分は止めさせるどころか、「もっとやれ」とけしかける始末だった。そのうち昼間の疲れと酒の酔いが回って、皆毛布にくるまり子供みたいに寝てしまった。そのあとはイビキの合唱大会でもやってるみたいだった。
 夜明けの頃だった。「カッ、ピー!」というものすごい怪鳥のような鳴き声で私は飛び起きた。そいつは鳴きながら森の方に遠ざかって行ったので私はホッとした。他の連中も目を覚まし騒ぎ始めた。
 「この谷には熊よりもっと怖い獣がいるんだ」と私が言うと皆は顔を見合わせていた。栗岩さん、ありゃ何ですかい?」と親分が真顔で私に聞いた。しばらく皆の顔を黙って見回してから
「あれは鹿なんですよ」と言うと
栗岩さんも人が悪いヤ、ホントですかい?」
親分も子分も半信半疑という顔で私を見た。鹿は驚いた時や警戒音を出す時、そのような大声を出すのである。
 谷間に朝が来て、私達の焚き火の煙が高く高く青い空に昇っていった。谷川の水で顔を洗うと気持ち良かった。朝食のあと皆で釣り大会をやった。
 「優勝した者には1万円やるぞ!」
と親分が言ったので皆の目の色が変わった。
 「釣りなんか初めてだ」と言う子分らの面倒を見てやらねばならず、私は釣りどころではなかった。親分はさすがに奥多摩の山村で生まれ育っただけあって釣りが上手だった。次から次へとイワナを釣り上げて、えらくご機嫌だった。タカハシはパンツ一つになり、淵に潜って素手でイワナを捕った。すっかり子供に返った彼の顔は純真そのものだった。他の連中も、都会の片隅の吹きだまりみたいなところで暮らす男達には見えなかった。優勝は子分で釣りキチのテツがさらった。
 釣りのあと、イワナのてんぷらを作り焚き火を囲んで昼飯を食った。タカハシは飯を5杯もおかわりして皆に笑われた。
 ちょうど昼飯が終わろうとしているときだった。いきなり谷川の向こうの茂みがざわつき、木の枝の折れるバキバキというものすごい音が聞こえてきた。
 「なんだ!」
親分は箸をとめて私の顔を見た。
「熊じゃないかと思います」
私が言うと、一瞬みなの顔が青ざめた。子分の何人かはドンブリを地面に置き、既に浮き足立っていた。その時
「ウワー、クマだ!」
とトメが、必死の形相で茂みの方を指さして叫んだ。私の位置からは見えなかったが、そのあとはもう大騒ぎだった。子分達は飛び上がり、竹槍も忘れて、反対の山道の方へワーッと逃げ出した。
 踏みとどまって竹槍を構えていたのは、私と親分と人形佐七だけだった。茂みの動きでクマが遠ざかって行くのが分かりホッとした。しばらくして、子分達がおっかなびっくりで戻ってきた。
 「どいつもこいつも意気地のねえ奴らだ、それでも男か」
親分が怒鳴ると子分達は面目なさそうだった。タカハシはネコにバシッとかっちゃかれたセントバーナードみたいに背を丸めハアハア言っていた。
 私は内心、「あれは鹿だったかもしれぬ」と思ったが黙っていた。これで親分も子分達も東京に帰ってからの話題に当分困らぬだろうと思ったからだ。私達はテントを畳み山を下りた。トムラウシの部落の外れで私は皆と別れた。白い多摩ナンバーのミニバスは次第に遠ざかって行った。子分達は窓から身を乗り出し、いつまでも手を振っていた。
 東京に帰って、1時間に50匹もイワナを釣ったことや山の中のキャンプの事や、夜空の星が両手でつかめるくらい凄かった事やクマのことを、奥さんや子供たちやほかの子分達に話している親分の姿が目に浮かんだ。
 その後、私は1年半にわたり外国を旅し、帰国してすぐに北海道に移住した。風の噂では、タカハシは故郷の岩手に帰り百姓をやっているという事だ。人形佐七は金持ちの女でも引っかけて、いい暮らしをしてるのではないかと思ったが、今も親分の片腕として、S商事の番頭をやってるそうだ。子分の中にはその後、スーパーの社長になったのもいるし、土建屋を始めた男もいたという話だ。
 落ちこぼれていた人間が一生そこに留まっているなんてのは、まっとうな生活をしてる人達の幻想である。ちなみに私はその後結婚し、今は小さなレストランを経営している。
S商事とピラニア軍団に栄光あれ!
この話はあくまでフィクションです。一応そういう事です。

本作は季刊エッセイ雑誌「生活と意見」第12号 2002 に掲載されていたものを加筆、修正したものです。

PAGE TOP