隠れ家的レストランモレーナのインドカレーと世界を放浪したマスターの旅

脳梗塞闘病記

脳梗塞闘病記 2

2010年3月4日 くもり

 昨日2人が部屋に入った。2人とも転んで頭を強く打った患者だ。頭の手術が終った患者である。(頭に穴をあけ、溜まった水・血を抜いて中を洗う)問題がなければ、次の日から歩け一週間くらいで退院する。重い患者は6人部屋に来ない。別な患者は集中治療室に入ったままだ。この人は、ホテルのロビーに外から入った時に滑って転び頭を強く打った。クツの裏に雪がついていたからだ。(この種の事故は多い)そのあと近くの病院に運ばれたが脳外科の専門医がおらず、たいした事ないと判断されて数日で退院した。その後、屋根の雪おろしをしている時に、急に具合が悪くなり、救急車で名寄の市立病院に運ばれ手術を受けたが、重体のままである。(50才)あの病院に行かず、まっすぐここに来ていたら、このようにはならなかっただろう。良くも悪くも、ちょっとした判断の差で決まってしまう。そこに私は人の運命を感ぜざるを得ない。A老人も急に自宅で意識がなくなり、病院に運ばれた。しかし、そのような事態のあったすぐあとであったので、問診だけですぐにここに送られ、脳を洗うカテーテル手術を受ける事ができ、ほとんどマヒも残らず、一週間で退院出来たのである。この人は誠に運が良かったのだ。
 今日は午前中に3人が部屋に入り、6人部屋はいっぱいになった。急に活気づき静けさは消えナースの声でいっぱいになった。3人のうち2人は白内障の手術を受ける患者である。残る1人は感染症で足が腫れて入院した。伊藤さんがアルゼンチンタンゴのテープ2本を昨日持って来てくれたので、ずっと聴いている。やはり、今はアルゼンチンタンゴの曲が一番、快い。気持がいやされる。
 アルゼンチンのブエノスアイレスのボカ周辺をスケッチして、さ迷い、足しげく通ったドラーゴ広場のタンゴカフェの事を懐かしく思った。そこで、いつも演奏していた老ギター弾きと老バンドネオン奏者や店の常連客(歌がうまかった)の事が心に浮かぶ。その人達は私の描いた絵の中でずっと生き続けるだろう。
 午後リハビリ理学療法士の伊藤さんの指導で歩く練習、まだとても1人では歩けない。重心の移動がうまくいっていないためだと言う。指のミラーBOXを使ったリハビリもやった。3時過ぎにフミちゃんが来た。カノ子さんも来て、一緒に話しているとアポロマスターとトモちゃんが来た。来客が重なるのは嬉しいけれど残念。来客のない日は淋しいものである。カノ子さんが帰ったあと、杉田さんと棚橋さんが来てくれた。旭川に転院したら淋しくなるだろう。もし回復したら杉田さん達とまた釣りに行きたいと思った。

2010年3月6日
 昨日から介護なしで、車イスでトイレに行く事及び洗面所に行く事を許された。一人で車イスに乗る事と、右手と右足だけで、車イスを自在に操る練習は数日前から始め、今では上手になった。トイレ、洗面、歯みがき、食器(食べ終って)を返しに行く事も出来るようなった。いちいちナースさんの手をわずらわせることもなくなり気分的にも、おおいに楽になった。これは、私にとっても記念すべき事だ。
午後リハビリ、歩く練習と療法、今日はリハビリの先生に支えられながら、ベッドまで歩いて戻った。途中で疲れて、足(左)が前に出なくなったりして、困ったがなんとかベッドまでこぎつけた。ヒザがガクガクした。そのあと、入浴、温水シャワー看護助手に手伝ってもらいながらの入浴、ベッドまでの行き帰りは車イスである。終ってから。体をタオルで拭いてもらい新しいパンツと院着を着せてもらった。湯ざめしそうなので、フトンを2枚かけ、あたたかくして横になっていると、思いがけなく、ヒョコリと山口県防府市の西原さんからの手紙と本・CDを持ってフミちゃんが来てくれた。
車はまだ車検から戻らず、イヌを小屋の中につないで、留守番させ、代車で来たと言う。こんな事態になり、フミちゃんには、すまない気持である。税金の申告があるので、忙しいと言う。夕食の時、坊さんの上原君が訪ねて来た。山口県の萩(はぎ)に行って来たと言う。(最近、結婚した彼女の実家がある。)彼は、萩に行って暮す事に決めたと言う。インドの旅、ルンビニ(シャカの生地)への旅の話をした。彼はまだ20代、人生もこれからだ。私もこの病をバネにして、残された人生を実のあるものにしよう。
 土、日はリハビリ(週4回)も入浴(週2回)もなく、3号病棟には、静かでのんびりとした空気が漂っている。A老人が退院したあとのベッドに私より1つ年上のBさんと言う人が入った。
ナヨロの人だが、若い時サッポロに出て40年あまり暮したと言うだけあって、都会的でどこかアカぬけた感じの紳士だ。面会人もなく、奥さんらしい人も来ない。独身で子供はいないようだ。左足が大きくはれて痛くて、眠れない、原因はわからない。3年前にもはれたのだと言う。5体満足な時は気にもならぬが、どこか1部でも具合が悪くなると実に不便なものだ。彼は20代の時、心臓移植で有名な和田教授の手術を受け、命をながらえた。50代になって若い頃の輸血が原因と思われるC型肝炎になった。その潜伏期間は30年と非常に長く発症するまで気がつかなかったと言う。インターフェロンによる治療を受けたが、ウィルスは発見できず止める事は出来なかった。このまま行くと最終的には肝臓ガンとなり助からない。医師にそう告げられたと言う。それは死刑の宣告に等しい。
「寿命が先か、肝臓ガンが先か、どっちみち死ぬんだから、好きな酒はやめんよ。」と言って笑った。日本ハム(北海道の球団)の大フアンである。日本酒をチビチビやりながら、ナイターをテレビで観るのが何よりの楽しみだと言う。そのような人生もある。 私もここに来て、1ヶ月になろうとしている。実に長く、そして重い時間である。今日は日曜日でリハビリはない。自分のベッドととなりのベッドの間の通路をベッドの手すりにつかまりながら歩行の練習をした。だんだんと手すりにつかまらなくても歩けるようになった。と言っても3メートルがやっと。まだ長い距離はムリだ。あとは悪い方の手足のマッサージとかユビを動かす練習をする。

  • マジックミラー療法 左側マヒ 
  • *ミラーボックス療法
    • 私を担当する療法師の伊藤さんが段ボールの箱と鏡で作ったミラーボックスを使って、マヒして動かない左ユビの治療を始めた。これはアーマ・チャンドラーと言う人が考案した最新の理学療法で、日本でもまだめずらしく、私のマヒしたユビが実際に動くのを見て、若いナースさん達も私も声をあげ驚いたし、希望を持つ事ができた。★次の朝になるとユビは動かなくなってしまうが、前より動きがよくなっているのが、わかる。
      • ○術者は患者の右手ユビ(自由に動く)の動きを見ながらマヒしている左手のユビが同じように動くように指示する。
      • ○マヒしていない親ユビにマヒした人さしユビを10回タッチさせる。次に中ユビを10回タッチさせる。次は薬ユビ、次は小ユビの順で行なう。患者からは鏡に映る右手のユビが見えるようになっている。
      • ○同じ動きをマヒしている左ユビに同時にマネさせる。
      • ○患者は鏡を見ているのであたかもマヒしている左手ユビがマヒしてない右手ユビと同じように動いているように見える。
      • ○錯覚をくり返すうち、新しい回線が脳の中に形成されそれが回復につながると言う。

(2010年ナヨロ市立病院 317号室にて)
 2時過ぎに、ナオちゃんが子供(フウタ、サッチ)を連れて見舞いに来てくれた。ネコの具合が悪いので診てもらったと。イヌは留守させておいたら、自転車のサドルをかじられ、ボロボロになっていたとこぼしていた。うちのイヌと同じだ。本を1冊貸してくれた。6時夕食、9時消灯 長い夜。

2010年3月8日 ハレ (倒れて1ヶ月が過ぎた)
 午後2時よりリハビリ。歩く練習、行きは車イス、帰りはリハビリの先生の補助で3階の317号室まで支えられ歩いて帰った。まだ、動きがロボットみたいにギクシャク、思うように歩けず、大変だった。ベッドにヘトヘトになって横になる。まだ、バランスがくずれやすい。腰の重心移動がスムーズに出来ないためだと言われた。夕食前に4人部屋の前を通りかかると、MさんとKさんがまだ入院中であった。Kさんは最近目が見えるようになり(まぶだのマヒが消えて)大変元気になった。もう歩く練習に入っている。夕食後、同室の患者と話す。Bさん、やはり60代の人、メール便の配達中に氷、雪ですべって頭から転倒、ここで診てもらい通院した。しばらくしてから、急に足がもつれ、フラフラするので再びここに来たが、受付時間(11:00)を過ぎていて診てもらえず、MRIのある他の病院に行き検査の結果、頭の中に水がたまっているらしいと言うことで、次の朝にここで診てもらい、そのまま入院手術を受けた。(5日前)もうすっかり元気になり、本を読んだりして、テレビを見ている。運の良い人だと思う。彼の話では、ガンは厚生病院、頭は日赤、心臓は旭川市立病院が有名なのだと言う。旭川の守山病院は眼が有名のようだ。なかなか詳しい。読書家でもある。彼は20年前に心臓を患い、旭川市立病院でバルーンをやり、その後10年前にステントを入れた。5年前に具合が悪くなり、再び入院、入院中に心臓梗塞をおこし、バイパスの手術を受けた。今は問題ないと言う。運が良いと言うか不幸中の幸いである。彼は体質的に食事療法、制限をしても他の人よりコレステロールが出来やすく、母親も同じ病気で亡くなっている。医師の話では、肝臓がフツウの人とちょっと違うタイプでコレステロールを作りやすいのだと言う。中性脂肪を減らすクスリを飲むようになってからは、コレステロール値はグンと下って、平均値近くまで下って、今は問題なく暮らしているとの事である。

2010年3月9日 ハレ (寒気)体温36.9℃ 血圧140-88
 最近、遠い昔の事をよく思い出す。それは私が19才の時、結核を患い、東京の北里病院(今の北里大学付属病院)で療養していた頃の事である。そこは、ジフテリア研究で知られる北里柴三郎ゆかりの大きな病院であった。私はその2階の病棟にいた。(東京オリンピック)の頃、私はよく4階の屋上に一人で行き、遠くをながめていた。すぐ近くに三田があり、東京タワーが見えた。その日も一人で屋上の手すりにもたれて、ぼんやりと街並みを見ていた。春であった。空には綿雲が流れ、洗濯物がそよ風に揺れていた。
突然ポンと肩をたたかれ、振り向くと荒七さんだった。(同じ6人部屋の患者)本名を荒川七郎と言う。50代のオジさんで戦争で南方に行き、マラリアにかかって、日本に帰って来た。しゃべる時に口びるがふるえ、まぶたがヒクヒクするのは、その時の後遺症だと言う。すぐ近くに住み、安月給の郵便局員だから「妻子を食わせて行くのがてえへんだ」といつもぼやいていた。髪の毛に白いものがちらほらまじる中肉中背、ねまきの後姿が淋しいような人であった。
「なんだ、クリ公元気だせよ。おめーはまだ若えんだから、これからが人生だぜ、まだ先があらあな。心配すんなよ。」と病気でしょげている私を励ました。結核のために大学受験を断念、父の死と山形で知り合った彼女との別離、挫折感をぬぐいきれなかった。私は肩をポンとたたかれた、あの時の事を昨日のようにまざまざと思い出し、今またあの時の彼の言葉が私の中にこだましているのを感じた。
 朝の回診の時、白井医師から「今、旭川のリハビリ病院混んでいるので、もう少し待ってくれと言う事だからモチベーションを保ってもう少しがんばって下さい。」と言われた。先生が自分のことを気にかけてくれているのだと思うと嬉しかった。

2010年3月11日 ハレ 体温37.2℃  血圧126-80  AM11:00
 外を見ると家々の屋根の雪があらかた消え、下から屋根のスレートやトタンが現れ春のきざし が感じられるようになった。はるか遠くにシュマリナイ湖を抱く白い山脈が見える。
 私の旭川行は、まだ決まらないので心なしか不安だ。カモサク君が持って来てきれたせっかくのイチゴはお腹が下痢しそうな感じなので、食べられなかった。誰か来たらあげようと思ったが、誰も来なかった。夕食前にここのすぐそばに住んでいると言う上原君に、電話BOX(同じ階にある)まで車イスで行き、電話した。彼にイチゴとポカリスエットをあげた。上原君は嬉しそうに「また、来ます。」と言って帰って行った。
ベッドに横になると窓から青い澄んだ空が見えた。ネパール、パキスタン北部(フンザ、ギルギット)で見たあの限りなく深く青い空を思い出した。私の足は、世界中を日本中をそれも果てと呼ばれるような観光とは縁のないような土地や神に見捨てられたような土地も歩いて来た。その足はもう再び2度と前のようには動かないのか、そう思うと悲しい。リハビリで歩行訓練をしているが、大きくビッコを引きながらやっとイザリのように歩く。それでも一歩も自分で歩けなかったのだから上を見ればキリがない、そして下を見てもキリがない。最近やっと現実を現実として、受け止められる余裕が生まれて来た。脳梗塞が反対側で起きていたら(左脳)、私は話たり、聞いたり読んだ時の意味を、理解できなくなっていたわけだし、想像力を失い、絵を描いたり、音楽を作ったり、創作する能力にかなりなダメージを受けたはずだ。同じ部屋に、そう言う患者がいる。Tさん(紋別の人)は両手も自由だ。しかし自分が何を言っているかわからないと言う。私はどちらを選ぶと言われたら、今の方を選ぶだろう。歩けなくても、人と話ができ、絵を描く事ができる方が良い。

2010年3月12日 くもり (外は寒そう)
 書き忘れたが、昨日は伊藤さんが2回も来てくれた。1回目は頼んでおいた録音用のテープと缶コーヒー2本を持って来てくれた。2回目は午後のリハビリのあと、かの子さんと2人で来た。伊藤さんは去年書き上げた小説の原稿を持って来て、私に見せ、批評してくれと言う。 「神から選ばれた元ナチス・ドイツ兵ニコラオ神父」と言う長い題の小説だが、出だしから、いきなり引き込まれ、目が悪いのにだいぶ読んでしまった。私より、ずっと上手だから、批評などできないと思った。ただ、原題は長すぎるから「神から選ばれた兵士」または、「神の兵士」とした方が良いのではないかと、私は彼に言った。これは伊藤さんが若き日に出会い洗礼を受けたドイツ人のニコラオ神父の物語である。
40年前に神父から直接聞いた話を書いたのだから、ノンフィクションである。ノンフィクション独特の迫力に満ちた小説である。第2次大戦下のドイツ、ロシアが舞台で戦争に翻弄された1人の人間の歴史でもあり、非常に興味深く、面白い。目が良ければ一気に読んでしまったのに、それが出来ないのがもどかしい。午後2:00からリハビリ、そのあと入浴、看護助手さんに左足(マヒ)あげるのを手伝ってもらい右手で手すりにつかまり、フロに入る事が出来、嬉しかった。今までは、イスに腰かけての温シャワーで体を洗ってもらう状態であった。一歩前進したことになる。
 クスリも一週間分を週のはじめにもらい、自己管理を許された。しかし、まだ1人(車イス)で1階の売店や窓口に行く事は許可にならない。夕方ぼんやりしているとマサ子ちゃんが来た。東京の実家(小平)に住んでいるがナヨロにちょっと遊びに来たと言う。今は牧師のクリちゃんの所に泊まっている。彼女が帰ったあと、フミちゃんが来た。頼んであった入院費を持って来てくれた。

2010年3月13日(土) 吹雪 ひどい風
 リハビリなし。院内は(土)とあってナースさんも少なく静か。同じ脳梗塞のTさんと話す。彼は手足のマヒはないが、言語障害が残った。話したいがうまく出来ない。単語が出てこない、出て来ても違う単語なので、何を言っているのか、聞く方がわからなくなったりする。字が書けないし、住所もわからない。独身50代、紋別の病院で働いていたと言う。私より彼の方がひどいと思った。
夕方、尾潟トオちゃんが来る。となりの部屋に入院しているナンバさんが西条で買って来てもらったサバずしを持って来た。3人で食べた。とびきりうまかった。(見つかったら怒られるのでスリルがあった。)ナンバさんが引きあげたあと、トオちゃんと話した。途中で夕食が来た。トオちゃんは「病院のメシがなつかしい」と言った。そんなこんなで、私も気分がすっかり明るくなった。
 伊藤さんの小説を読み進め、批評文を書いている。田中さんの書いた小説(ランズ・エンド)はさっぱり面白くなく、途中でアホらしくなった。読む人に共感を与えないからだろう。伊藤さんは下調べを入念にやっている。小説は下調べが7で書くのは3と言われている。当時の(第2次大戦下)の複雑なヨーロッパの戦況が刻銘に描かれ、ドイツの社会状況もつぶさに書かれている。
ナチの通信兵としてソ連に送られた若き兵士オスカル。100年ぶりと言う厳しい冬と、補給路をたたれたドイツ軍は総崩れとなる。敵地を必死でなんとか逃げてドイツに戻る。(出だしは空き家に隠れピストルを握りしめてソ連兵をやり過ごすシーン) その日からオスカルのルンペン生活が始まる。運命の導きか、やがて彼は教会にひろわれ、雑役夫となる。そこの学生寮で働くうちラテン語が出来、頭が良い事がわかり、彼は神父の推選で修道院に行く事になり、神学を学ぶ。後に助祭を任じられるまでになった。やがて、彼は日本の宣教活動に情熱を抱き司祭に任じられ日本に渡る。その最初の任地は北海道のナヨロであった。このような数奇な運命をたどり、元ナチス・ドイツ兵と名寄カトリック教会が結びついたのである。ノンフェクションを骨格にして肉付けし、生命を吹き込んだ小説だ。すばらしい!この物語は、時代が戦中、戦後にまたがるドイツで(疾風怒涛)と呼ばれた、激動時代であるだけに興味深いものだ。私は久しぶりに面白い小説(物語)を読んだと言う気がした。

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