隠れ家的レストランモレーナのインドカレーと世界を放浪したマスターの旅

脳梗塞闘病記

脳梗塞闘病記 4

2010年3月23日 くもり
 朝、この6人部屋で一番元気の良いDさん(81才)と話した。「いやー、年をとると人と話さず、黙って一日中座っていても苦にならなくなるんだよ。話すのがおっくうになってしまうんだな。  話もしないで食事するのも平気になるし、夫婦の会話もなくなる、テレビばかり見ていてボケちゃうんだね。」「ボクは今も社会保険労務士の仕事を少しかかえていて、働いているからいいけどね。」と言っていた。彼は毎朝、30分の散歩を欠かさずやっていると言う。彼は「病院と言うところは話したり、運動する所じゃないですから。」と医師に言われたそうだ。そんな話を聞いて、私にもなんなく病院の空気みたいなものが見えて来た。午前11:00 入院着の着替えと清拭と入浴は金よう日である。午後2時頃から作業リハビリを4階で受けた。(小川先生)

2010年3月24日 ハレ(久々のハレ、雪とける)
 午後2時前より作業リハビリ 小川先生は私が絵を描けるように(リハビリをかねて)はからってくれた。リハビリ室の窓際に腰掛けて持参のスケッチBookを広げ、写生、色づけ(水彩)した1時間弱で仕上げた。病気で倒れて以来、初めて筆をとった。目の調子が悪いので疲れてしまうと思ったが広々とした野外の風景を描いていると逆に目の調子が良くなったので驚いた。部屋に戻ると木下さんのCDと置き手紙があった。帰ってしまったのかとがっかりいていると、木下さんと瞳さんが下から戻って来た。私を探していたと言う。木下さんの話では、最近日本で開発された電磁波による脳梗塞の治療法が世界的なニュースとなり、テレビで紹介されていたのを見たけど、スゴイよと詳しく話してくれた。 夕方に、ヒロ子さんとマサイが来た、マサイは約束どおり、木彫りのネコを持って来てくれた。ヒロ子さんは、ガンセンターからの帰りだった。今夜はマサイとミチの所に泊り、明日ナヨロに帰ると言う。

2010年3月25日(木)くもり
 血圧130~140 80~90  体重68.1㎏朝食後  ここに来て早や、1週間が過ぎた。適切なリハビリを毎日受けている(毎日、2回)効果はすばらしく、ヤジロベエみたいに左右に首をふり、ガニ股で歩いていたのが、かなり改善されて杖を使えば、かなり歩けるようになった。右足に頼る歩き方が改善され、バランスもよくなりつつある。
 ムダな力を使う必要が減り、歩行距離はのびている。先生は熊谷さんと言う30代の話好きで、熱心で、ていねいな器用そうな人である。ベッドの上で久しぶりに左足をあげてみたら、大巾にあがるようになり(50~60㎝)自分でもびっくりした。(ナヨロでは10㎝しかあがらなかった)左足が車イスの足台まであげられるようになった。(10㎝)(ナヨロでは、まったくあがらなかった。)
 今は左足の足首から先を上げたり下げたりする練習をベッドの上で始めた。(自主リハビリ)意識して指を曲げる。自主リハビリもヒマな時間にやっている。少しずつ効果が現れ始めた。

2010年3月26日
 午前中、微熱37.1℃ 血圧152~95(高い)  昨日、書きものをし過ぎたせいか、疲れが出た。左目の奥が重く、なんとなく元気が出ず、色々と考えるうち、またダークサイドに落ち込んでしまった。心が苦しい。たまらなくなり、車イスで部屋の外の廊下にある電話の所まで行って、アガペさんに電話すると、これから行こうと思って準備していたと言う。携帯がほしい。病気で私はすっかり気が弱くなってしまった。(友人と話すと元気をもらう)でもまだ、最低2ヶ月はここに居なくてはならない。  どこかの部屋から、動物のような叫び声が聞えて来る。夜中もそれが神経にこたえるのだ。ここが少し恐ろしくなり始め、自分が本当に気が狂ってしまうのではないかと言う心配がつのる。昼過ぎに、アガペの父さんと母さんが心配して来てくれた。最近また屋上から飛びおりる事を考え始めた。療法士に自分の不安をはき出すようにしゃべり、聞いてもらう事で、恐怖はやわらぎ、心軽くなった。  夜 7時頃、ヒロ君が来た。昨夜はマサイの所に泊ったと言う。彼はインドネシア(林業研修)から帰ったばかりで、日焼けしていた。肩をもんでくれた。効果は絶大で頭の中のモヤモヤが晴れて行く感じがした。ノンちゃんは2人目の子供が春に生まれるらしい。ヒロ君は上田(長野県)で今年は働くのだと言う。

2010年3月27日 ハレ
 昨夜、また雪が降ったらしく、朝起きて窓から外を見ると、けっこう積もっていた。となりのベッドのEさんも元気のいいDさんも退院した。そのあとにFさんと言う70代の人が入った。この人は小山君にそっくりで、最初から親しみを感じた。むこうもそうらしく、時々一緒に車イスで5階の展望台(食事兼談話室)に行き、景色を眺め話をした。
Fさんは、となりの旭川医大からリハビリのため(腰の)転院して来た。食堂ガンで治療(放射線)を受けた。食事の時、食物の通りが悪いので、私達より30分前から食事を始める。私は30分後に食事を始めるが、私が食べ終っても、まだ食事中であったりする。今日は私と院内を散歩(彼が私の車イスを押す)したので、スムーズに食事が出来たと喜んでいた。今日は絵を2枚描いた。昼前にナースさんに4階行きが29日(月)の9時に決まった事を教えられた。なんとなく、ホッとした。

2010年3月28日 ハレ
   絵を描く。「楽しい町」(旭川)と「裏通りを往く羊飼い」(アンダルシア)を完成 4時頃、サカイ君来る。電子辞書を持って来てくれた。おおいに助かる。学校を退職(定年)し長い教員生活にピリオドを打ったと言う。自由を取り戻し、嬉しそうだ。病気の両親もケアハウスに入り、その世話からも解放された。

2010年3月31日 3階から4階の部屋に変る
 午前中 はじめてコインランドリーで洗濯した。絵及び日記をかく。新しい部屋(4人)眺めが良い。以前程、悩まなくなって来て、心がラクだ。リハビリの時間がふえ、4階に来て環境も明るくなったせいだと思う。さすがに4階は元気な患者が多く、リハビリに集中した生活で、服装もパジャマでなく、トレーナーの上下と決まっている。ただし寝る時は規則で病院パジャマに着替えなくてはいけない。片ウデ、片足が不自由なので苦労する。でも右手、右足が自由なだけましだ。不自由な患者もいる。こうして字も書けるし、絵も描ける。旭川の夜景を窓ごしに描く。リハビリは時間がふえて倍になり、かなりきつい。終るとヒザがガクガクする。症状が固定する前に、このくらいやらないといけないからである。今が今後のキメテだ。生活リハビリの小川先生(女性)も理学療法の熊谷先生(30代)も良い先生だし熱心である。ナースさんも皆とっても親切でありがたい。(リハビリ 日曜だけ休み)

2010年4月1日(木) ハレのち雨
 4階のリハビリ生活にも慣れて来た。80代、70代が多く50代、60代は少ない。部屋は車イスの患者が大半だから、ベッドとベッドの間が広くとってあり、全体にゆったりしている。部屋の中に洗面台、トイレ、共同の作業机が置かれている。ダイエットのためにごはんはずっとハーフライスにしてもらったが、寝る生活から動く生活に変り、ものすごくおなかが空く。明日からフルライスにしてくれるように、頼んだ。
ダイエットもやりすぎると白血球が減り、感染症になりやすいとナースさんが言っていた。鏡で見ると私は別人のように見える。67㎏(前75㎏)リハビリはナヨロでは週に4時間だったが、旭川では週20時間で5倍になった。

2010年4月2日 ハレ
 今日は大部屋に移動するらしい。個室よさらば。個室はイヤホーンなしで音楽が聞けるし、絵もゆっくり描けて良かったけど、孤独になりやすい。余計な事を考え落ち込む。患者同志でおしゃべりする事もない。私はくちびるの左半分にマヒがまだ残っている感じがあり、言葉を話さないでいると、だんだん口が固くなって来る。しゃべりにくくなる。だがら、大部屋に移る事は良い事だと思う。

2010年4月5日(月) くもり
 2月の9日に脳梗塞のため、救急車でナヨロ私立病院に運ばれ、入院した。左、手足のマヒが残った。3月17日に旭川のリハビリテーション病院に転院し現在に至る。文章は今では1日に1ページ書けるまでになった。
今日はフロの日、午前10時頃、介護入浴11時より作業リハビリ、主として手が動くようにするリハビリで色々な作業をやる。12時、食堂まで部屋から杖を使用してころばぬように歩いて行く。距離があるので、けっこうキツかった。2時半頃、フミちゃんとかの子さんが来る。イヌは車の中、会えなかった。イチゴを食べた。おいしかった。3時、担当主治医の病状説明とアフターケアの話を医務室で聞いた。
そのあと、ソーシャルワーカーの岩本さんから介護保険障害者手帳、障害年金の手続きやフロや玄関、トイレにつける補助器具の話があった。自分の今後の事を考えると気が重い。でもそうも言ってられないのだ。フミちゃんが頼んでおいたスニーカー、ジャージのズボンを持って来てくれたので、それにはき替えた。プラスチックの補助具の上から、はいたが問題なくはく事が出来た。(26.5)
夕方、伊藤さんが来た。養護学校の就職が決まり、月に1度、旭川に来る事になったのだ。4月4日(日)はフミちゃんもミサに行ったと言う事でイースターの玉子をもらった。皆で5階の展望台から旭岳やフラノ岳を見たあと、私は食事に(6時)行き、皆は帰った。ジュディ(イヌ)に逢えなくて残念だった。

2010年4月6日 雨
 窓から外の雨を見た。いつのまにか、冬は去ったのだ。私が脳梗塞で倒れたのは2月9日、まだ冬のさ中だった。足元がフラフラし体が変だった。携帯でフウレンのアトリエから下川の家に電話するとフミちゃんに病院に行けと言われた。でも、午後の3時で、ナヨロ市立病院の受付は終わっており、再び家に電話すると、フウレンの診療所は4時までやっているから、そっちへ行くようにフミちゃんに言われた。
アトリエの前の道は雪で半分ふさがっていて、街道まで出られるかどうか、ほとんど不可能と思われた。するとその時、除雪車が来たのだ。それで下川→フウレン線(街道)まで、どうにか出られた。ラッキーと言うしかない。フウレン旭の部落を過ぎると吹雪がひどくなり、前がよく見えない程だった。それでもどうにかフウレンの町をぬけて、病院に着いた。やっと駐車スペースを見つけ、車をおりた。
フラついてまっすぐ歩けなかったが、なんとか玄関に入った。そのあと問診を受けた。ろれつが回らなく大変だった。少し時間より遅かったが、フミちゃんが病院に電話してくれたので、待っていてくれたのだ。医師は、ここでは脳の検査が出来ないからと言い、すぐに救急車を手配した。
クスリをもらってそのまま、車で家に帰るつもりでいたので私は驚いた。私は事態の深刻さに気づき、携帯で金子さんに電話をし、これから救急車でナヨロ市立病院に運ばれる事、車の中にイヌがいる事、車のカギをフウレンの診療所に預かってもらっている事とフミちゃんへの連絡を頼んだ。救急車がすぐに来て、ナヨロ市立病院に運ばれた。救急隊員が、私の血圧や脈拍をチェックしながら、大きな声で何か言っていた。・・・血圧180・・・
 夜中に誰かが私の名前を呼んでいた。・・・気づくと若いキレイなナースさんだったが、天使と錯覚し驚いた。私を眠り込ませないためにそうしているのだとわかった。次の朝「手をあげて、手の平を開いて、閉じて」と医師に言われた。私には、それが苦もなく出来たので、助かったと思った!しかし、3日後には、左手も左足も動かなくなってしまった。それが本当に起こっている事だと自覚した時は、ショックを受け、死にたい気分だった。脳梗塞との斗いが、その時から始まった。

2010年4月9日 ハレ 68㎏ 血圧130-76
 急速に春が近づいて来た。発病して2ヶ月が過ぎた。野山を埋めつくしていた雪もぐんぐん溶けはじめ、あちこちで土が顔をのぞかせ姿を現し始めた。生命が再びよみがえる。旭川リハビリテーション病院に来て23日目。リハビリが進み、その成果が現れ、今まで不可能に思われた事(階段の昇り降りなど)も、だんだんと出来るようになって来た。希望の光が見えて来た。
1日、午前1回、午後2回の訓練を受けている。1回、1時間くらいだ。理学療法リハビリが2回(主として歩く訓練)作業リハビリ(主として、左手を自由に使えるようにする訓練)が1回である。P・T理学の方は熊谷先生(男)、OT(作業リハビリ)は小川先生(女)で共に30代 仕事に熱心で、本当に良くしてくれるのでありがたい。昨日、5階のコインランドリーで洗濯をした。まだ4階以外は車イスで行かねばならない。(リハビリと次のリハビリの間 2:00~4:00の間)ここでの生活にも次第に慣れて来た。
入院当時75㎏あった体重は68㎏に減った。それはライスの量を半分にしてもらったからだ。4階に来て運動量が倍以上になったので1週間前からライスの量を普通にしてもらった。血圧は140~150と高めなので、やはり1週間前からクスリの量が増え、130代に下がった。(130~120)

2010年4月11日(日)ハレ
  元気の良いGさんが外泊でいないので、418号室は活気がない。日ようはリハビリも休み、院内はのんびりムード。今日は自主リハビリに力を入れ、杖歩行をたくさんやった。4階の廊下を何度も往復した。あとは絵を描いた。

2010年4月12日(月) 67.2㎏ 血圧120~81
 午前10時、フロ まだ介護が必要(滑りやすいので)昼食後(月)は、体重を計る。ライスの量を倍にしたが、体重は約1㎏減っていた。リハビリと自首トレの時間が大巾に増えたためだ。体の調子はまあまあ。2階にいた時はロウカの片側にズラリと車イスが並んでいた。4階はロウカも歩行の練習に使用されるので車イスは病室内に置く事になっている。患者の半分以上は車イスだ。
 食事の時、50~60人が食堂に集まるが、車イスをテーブルの前に停めて食事する。私は杖歩行で食事に行くように言われている。車イスで行く方がラクだが、それは許されてない。朝食の時はトレーナーに着替えていなければならない。夕食の時はトレーナーを脱いで病院パジャマに着替えなければならない。昼前にナヨロから伊藤夫妻が来た。旭川の鈴木神父の母親が亡くなったので、式のあとここに来たと言う。私とフミちゃんはナヨロ教会で20年近く前に鈴木神父から洗礼を受けている。伊藤さんに、またツメを切ってもらった。(伊藤夫妻は私たちの名付け親)

2010年4月15日(木)大雪
 午後5時から雪は止み晴れて来た。雪はすぐに解けて行った。昨日、Gさんが退院した。窓際のベッドに居たHさんは、昼前に退院し、ナヨロに帰って行った。私のベッドは、ロウカ側で暗いので、Hさんの居た窓際の所に変えてもらった。ベッドの上に座ると、そのまま窓から大雪の山々が見えて見晴らしがすばらしい。とても明るい、目がラクになった。窓際は寒いと言う人もいるが、目が悪いので私はおおいに助かる。絵を描くのも苦にならなくなった。私にとってはとてもありがたい事だ。今の私は無力だ。でも、色々な力が私を助けてくれている。
脳梗塞で倒れた時は、手足が動かなくなり、トイレも介護なしでは出来ず、人生の節目にあって、絶望し、死ぬ事ばかり考えていた。しかし、落ち着いてまわりを見れば、私より悲惨な人がいっぱいおり、そうした中には生きるための努力を続ける前むきの人達がいる。この2ヶ月を2年くらいの長さに感じている。ここまで来れたのはラッキーだったとしか言えない。

2010年4月16日 快晴
 10:00から1階の歯科に行く。入院の日の朝に前歯が抜けた。(2月9日)その日、ナヨロの中枝歯科医院に行くつもりでいたら、体がフラフラし脳梗塞でナヨロ市立病院に入院となった。あれから丁度2ヶ月になる。差し歯はこれ以上無理(土台が虫歯になったので)なので、ブリッジをする事になった。治療に1か月くらいかかるとの事。午後のリハビリ中(1:30くらい)にアガぺの父さん、母さんが来る。2人はそのままリハビリを見学。終ってから3人で5階の展望台に行った。
 今日は大雪の山々もよく見えすばらしかった。ポットに入れて来たコーヒーとお菓子をごちそうになる。大変うれしかった。「何が欲しい」と言うので水彩用の白絵具を持って来てくれるように頼んだ。「前会った時より、ずっと明るく元気になったね。」と言われた。4階に来て1ヶ月の間に、私もどんどん良くなっている。今日は同室のGさんが退院した。
Gさんはボイラー関係の仕事で、長年旭川電化に務めていたと言う。若い頃、ハボロ炭鉱で働いた事があり、当時の炭鉱や生活の事を懐かしそうに、よく話してくれた。昭和50年頃までは大変景気も良く、生活もラクであったと言う。Gさんが出た後に、416号室からH君(40代)移って来た。今日はP-T(リハビリ)の歩行練習で熊谷先生と一緒に初めて、外に出た。病院の遊歩道を杖で歩いた。戸外の空気、太陽の光、土の匂いがとても新鮮に強烈に感じられ、嬉しかった。しかし、歩行は倒れそうでこわかった。

2010年4月17日(土)
 この病院に来て、ちょうど1ヶ月になる。猛吹雪の中、和寒の国道40号線で玉突き事故のあった日に伊藤夫婦の運転する車でナヨロ市立病院から、ここまで運んでもらい、入院した。いつしか春となり、今は名残雪がある程度だ。午後1:10からリハビリ。途中でビエイの「ひだまり」の千葉さんとアキちゃんが来てくれた。2:00にリハビリが終ったので、話をした。青木さんの奥さんから聞いたと言う。私が元気なのを見て安心したようだった。リハビリのあと、車イスを押してもらい、5階の展望台に行き、3人で缶コーヒーを飲みながら話した。夕食のあと、私のカセット音楽をかけてビートルズを聴きながらO先生とH君と3人でずっと音楽の話をした。皆、音楽好きなので良かった。Lさんは、外泊で今夜もいない。

2010年4月18日(日)ハレ 雪どけ
 昼過ぎ、3時頃にアガぺの母さん父さん再び来る。頼んでおいた白絵具とエンピツを持って来てくれた。父さんは「今日、蜜蜂が着いて、巣門を開いた。」とうれしそうだった。ハチ不足で値があがっているとの事。母さんは去年脳腫瘍の手術をし、元気になった。日よう日はリハビリがないので一日が長く感じる。退院できる日が待ちどおしい。

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