隠れ家的レストランモレーナのインドカレーと世界を放浪したマスターの旅

脳梗塞闘病記

脳梗塞闘病記 6

2010年5月3日 ハレ
 あたたかい  朝食のあと、スケッチの仕上げをやった。今日は病院にもどる日だ。ちょっと淋しい。朝食のおいしいパン、コーヒー、目玉焼き、ハチミツ、なんてすばらしいんだ!昨日、散歩しすぎて腰が痛かったので、今日は少しだけにした。車イスを利用した。車で送ってもらった。旭山動物園のあたりはすごく車が多かった。3時頃、病院に無事到着。

2010年5月4日 ハレ あたたかい
 連休中なので、院内はのんびりムード。外泊で4階の患者の数も半分くらいだ。リハビリも1日1回程度である。昼前に、上尾さんがサッポロからオートバイ(1300㏄世界のスズキ)で来た。  上尾さんは昔、ハコダテで民宿をやっていて、おいしい寿司を食べられる宿と言う事で旅人の間で有名だった。その頃、フミちゃんも泊った事があって、彼を知っていた。私達が下川でモレーナを始めた頃、上尾さんは愛別で小料理屋をやっていた。今はサッポロの南19西12に“和”と言う寿司屋を構え落着いたと言う。客も予約だけ、それで十分食べて行けるらしい。
 食材のロスがないので、その分高級なものを仕入れられるし、よそより安くも できる。今では固定客も増え収入も安定していると言う。ライダースタイルだったので、最初だれかと思ったが、私はすぐに思い出した。私が入院しているのは、モレーナに行って知ったと言う。
 彼の知り合いで脳梗塞で倒れた寿司屋の店主が(右側の梗塞)1年後には立派に復帰して店をやっている話をしてくれた。私もがんばって、復帰しようと思った。3時頃、ベッドに腰をかけてM・Cを聴きながら日記を書いていると、中年のカップルがやって来た。「あら、いないわね。」と女性が言った。男性の方が私の顔を何度か見て「やっぱりクリさんだ!」と言った。メガネのやせた女性はしげしげと私を見て「あら、ホント、クリさんやせたね~。わからなかったよ。」と言った。
私は2人を思い出した。つくば市に住んでいる、涌井夫婦だった。5年ぶりの再会、女性はサカイ君のお姉さんだ。今、休みで旭川の実家に泊っていると言う。サカイ君から私の事を聞いて、見舞いに来てくれたのである。5年前に旅の途中、涌井さんの所に世話になった。カズホもアカネちゃんも、ちょうど帰省中であったので、会う事が出来た。チャーリーとの最後の旅でもあった。あの夜、私は名物のアンコウ料理を涌井さんの家でごちそうになり、お酒も入って、ドンチャンさわぎをやったのだ。楽しい思い出を3人で語り合った。
何冊かの面白い本を持って来てくれた。「また筑波に来てね。」と別れの挨拶をして2人は帰って行った。

2010年5月5日 くもり こどもの日
 腰が痛いので、杖歩行はやめ車イスで移動。午後のリハビリは担当の熊谷先生だった。腰をもんでくれた。ムリな歩き方をしたのだとわかった。そのあと、もう1度正しい歩き方をしなくなったため腰にムリがかかったのである。夕食後、7時過ぎにマサイがM・Cテープを持って来てくれた。 5階のラウンジで昔の事を話した。マサイに初めて会ったのは30年くらい前だ。当時、私は東京にいた。トシとおフミさんの結婚式場でマサイとエイちゃんに私はトシから紹介された。マサイは背のずばぬけて高い、おとなしい青年だった。トシとおフミさんと2人でオキナワを旅した時にイシガキ島でキャンプしていたマサイと知り会ったのだ。結婚式の終ったあと、当時、坂浜の八木さん達のアトリエで完成したワンダーバード号(本格的キャンピングカー)に泊った。それは私の家であった。
1988年東京からワンダーバード号で北海道へ、ナヨロの松本さんの所で家の改築工事を手伝っていた。ちょうど、マサイが北海道湧別の実家に帰っていたので、電話すると、軽トラでナヨロにやって来た。私はマサイを松本さん(能面作家)に紹介、それからマサイと松本さんのつきあいが始まった。次の年、私達はマサイの下宿(向ヶ丘遊園)に1ヶ月くらいイソウロウして、その年の5月に1年半にわたる長い外国旅行へと出発した。
そのあと、マサイは結核で入院、半年後に治って東京を引き払い北海道に帰り、ナヨロ日進の松本さんもすぐ近くの空き家を借り、そこで生活を始めた。
1990年8月に私達はポルトガルから日本に帰国、北海道の土を踏んだ。その足でナヨロの日進の松本さんを訪ねそこでマサイと再会した。マサイは松本さんの弟子となって、木彫りをやっていた。東京ではアクセサリーを作り売っていた。もともと器用なので、上手になって、面も彫る程になっていたのでびっくりした。私達はマサイの家に暮し、マサイと一緒にデメン仕事(カボチャ、ビート)のアルバイトをした。冬になって、大西君が家を改築するので手伝ってくれと言うので再び、東京坂浜のアトリエにもどった。そこで半年ばかり、ずっと毎日大工仕事をした。1991年7月、大西の家を完成させ、仲間とお別れ、完成のパーティーを大西宅でやった。私達は大西にもらったトラックに荷物(カヌー、オートバイ、キャンプ用具、絵具)を積み込み、北海道へ出発した。(移住)
ナヨロの隣町、下川の空き家が私達を待っていた。移住先と言っても下川からサンルの方へ1㎞ばかり、牧草地の真中に建つ古い農家である。4年後、そこでレストラン「モレーナ」を開くことになるとは、その時は夢にも思わなかった。4年間は、時々アルバイトをやったり、絵を描いたり、個展を行なった。マサイは3年?程ナヨロの日進にいたが、ミチと一緒になって、ビエイのミチの家に引っ越した。それから3年?程ビエイにいたが、ミチと2人で愛別に移り住んだ。山を買って、自分で丸太小屋を建て、木彫りをしながら今もミチと暮している。レストラン「モレーナ」は現在もまだ営業が続けられている。

2010年5月6日 くもり
 午前中、歯科(1F)で治療、やっと差し歯が出来、前歯がそろった。11時20分から正午までリハビリ(熊谷先生)、やっと連休ムードからいつものムードにもどった。これからまた、しごかれる。夕食前にヤッチがひょっこり来た。ヤッチはミチとマサイが前に住んでいたビエイの家から、さらに少し奥に入った所でガラス工芸をやっている。冬は長野県の諏訪のカンテン工場で働いている。独身、長身の芸術家(非常にセンスがすぐれている。)おとなしくて、素朴な人柄だ。私は彼が好きである。

2010年5月7日
 同室のSさん60才が退院。その日のうちに416号室にいたT君(48才)が入って来た。彼は元気がいい。40代100㎏ある。まだ若いのに脳梗塞で3月に入院したと言う。  母親が毎日のように見舞いに来る。家がカムイなので、近いのだ。車イスの扱い方がここでは1番上手である。

2010年5月8日 くもり
 「栗さん、もっと楽しく生きなきゃだめよ。つまらなく生きてはダメ、オープンマインドだと言う人に限ってそうじゃないのよね。」と電話の向こうでフミちゃんが言った。「そうだったなあ」と今思える。いつも面白くなさそうな顔をしている相手と暮していたら、誰だってイヤになると思った。「患者さんや病院で働いている人、同室の人達とも明るい態度で接していれば、明るくなれるよ。」と彼女は言った。落ち込みやすい私の事を心配してくれているのだ。ペット・ロスなんて他人事と思っていたが、チャーリーが死んでから、私は元気がなくなってしまったのだ。なんかやる気が失せ、生き方が前向きでなくなっていたようだ。旅もしなくなり、遠出もしなくなってしまった。家からも出歩かなくなった。放浪しなくなった。そして、その3ヶ月後に病気、それも脳梗塞と言う重い病気にかかった。  これも運命か。それとも人生の節目なのか・・・いずれにしても、これからは明るく楽しく生きる事だけに心がけよう。苦あれば楽ありだ。そのうち良い事もあるだろう。・・・

2010年5月9日(日) くもり  発病から3ヶ月
 今日は4Fはワックスがけ大掃除、1時から4時まで部屋もロウカも入れなかった。1階で自主リハビリを適当にやって過ごした。歩き過ぎて、腰が痛くなり、ナースさんにサロンパスを貼ってもらった。山に登ったように足が疲れた。昼過ぎ、2時頃にビバイの千葉さんとアキちゃんが見舞いにまた来てくれた。マンガ週刊誌、どら焼き、車イス用のザブトンをもらう。ありがとう!アキちゃんの両親は大型トラックに車が突っ込み、死ぬ程の大ケガをしたが、リハビリで回復後、お父さんは車も運転すると言う。私と同じ年。

2010年5月10日(月) ハレ 体重66.0㎏
   連休の終り、リハビリが再び本格的に始まった。昼食後に体重測定、だいぶやせてスリムになった。歩行もだいぶ重心移動がスムースになり、左側と右側のバランスがとれて来て、歩きやすくなった。夜、7時過ぎにオガタ君(トオちゃん)が来てくれた。足の骨折もすっかり回復しフツウに歩いていたので、びっくりした。スケッチBookと画用紙をもらった。東京に行った帰りだと言う。(同窓会で)

2010年5月11日 ハレ
 「親知らず引き抜いた日に、チューリップ咲き」夢治
最近は6時半から7時半くらいまで、1階のロウカを杖で歩行練習をやっている。1周すると100メートルある。休み休み4周した。

2010年5月14日
 食事の時、一緒の席だったUさん(70)が退院した。中フラノの人である。お酒と野球が大好きなのだ。肺炎で入院(以前に脳梗塞をやっている。)入院中に院内感染した。そのため体重が10㎏以上減り、体力もなくなり、回復が遅れた。運が悪い。結婚していない娘さんが、家にいるので、退院できた。

2010年5月16日(日) ハレ(桜満開)
朝食前の1時間くらい、休み休み1階の廊下を3週した。 朝食後、9時から昼食までの間にした事
○自主トレ(外を少し歩いた)300メートル
 〇コインランドリーで洗濯
 〇5階からスケッチ  昼食から夕食までの間
〇自主トレ(1階を4周)1周100メートル
 〇同室の患者と少しおしゃべり
 〇絵を描く(アルファマの灯)
〇フミちゃんから電話あり(ナースセンター)「じゃまなのでゴムボート、デインギー(ヨット)を知人にゆずったと言う悲しい知らせ」  
夕食から消灯まで
〇日記を書く
 〇長野の姉と下川に電話、5月24日にミチルと2人で見舞いに来ると言うのでうれしかった。

2010年5月17日 ハレ 桜満開である Vさん退院 体重66㎏
 朝7時少し前から朝食(8時)まで、1階を4周した。腰の痛みは(土)(日)で回復、今朝は痛まなかった。食事の時、すぐ横のテーブルのVさんが退院する。小さいけど元気なバアちゃんだ。
 主人に先だたれ(5年前)ビエイで公住に1人暮しをしていた。脳梗塞で倒れ入院。息子さんがサッポロにいるらしい。もう退院してもひとり暮しはムリなので、退院先は前の住宅でなく、町の施設だ。施設に入る事が決まり、公住の中の荷物(衣類など)は職員によって、勝手に処分された。ひどい話である。彼女はそれを知って涙をポロポロこぼしていた。
老いる事は悲しい事なのか?悲しい事は年と関係なくあるが、老いによって生ずる事も多い。急にバッタリあの世に行く人がうらやましい。泣いたのは一日だけ、周囲の患者になぐさめられ、また前のように元気になった。女は強い。今日はお別れなので、朝食のあと、「Vさん元気でね。」と別れの挨拶をすると、「あんたも、早く良くなって退院してね。」と言って涙ぐんでいた。「ワシは今日みんなとお別れだから、いっぱい泣くさ。」と皆に言って笑うのであった。Vさんは「北海道のおバアちゃん」そのまんまの人である。
 食後にベッドで休んでいると、十勝三股の「三股山荘」の田中夫婦が見舞いに来てくれた。窓から大雪連峰がよく見え、田中さんが山の名を「あれがオプタテシケ、その右の方がビエイ岳と言うふうに一つ一つ山の名を教えてくれた。田中さんは学生時代、山岳部、今は大雪の十勝三股の山の中で暮している。去年の夏以来だ。あの時は、ブルガリア美人のイラと拝崎さんと一緒にホロカ温泉に泊っての帰りだった。「鹿の谷」の奥さんはどうしていることか・・・午後3時頃に回診、院長が私の絵を見て褒めてくれた。院長は50代のスポーツマンタイプの人、どことなく、みちる(妹)の旦那の国彦さんに似ている。(5月25.26日と姉と妹3人してレンターカーで下川に行くことになり、外泊許可を申請した。下川にもどるのは久しぶりだ)

2010年5月18日(火) ハレ
 毎日、少しずつ絵を描いている。(アルファマの灯)あまり、描くと自主トレーニングの時間がなくなる。今日は気温が20℃近くまで上がったらしい。空には霞がかかって、病院の裏手の田んぼでは早くも田植えが始まった。午後の作業リハビリのあと(シャワー )ベッドで休んでいるとフラノのオッちゃんと南さんが来た。昨夜、ナヨロの松ちゃんの家に泊ったと言う。フラノの帰り路にここに寄って、私を見舞う事にしたと言う。南さんも2、3、年前に脳内出血で入院した。なんの後遺症もなく元気そうだった。
オッちゃんはしばらく会わぬうちに少し太った。でも相変わらず、元気そうだ。フルーツをもらった。南さんには持ち歩きクスリ入れをもらった。昨夜の田中さんといい、今日のオッちゃんも思いがけず来てくれて、うれしい。夕食のテーブルは、私の向いの席も、その隣の席も空いたままで淋しい。入れ替りにVさんの席に若い女の子が入った。UさんとVさんが退院したからだ。私ととなりのバアちゃんも2、3日後には退院すると言う。このバアちゃんは、メシはほんの少ししか食べないけどしっかりしていて、元気、フシギである。

2010年5月19日 ハレ バカ陽気
 3日間くらいバカ陽気が続いている。周囲の景色は一気に緑が広がって、花がいっせいに開き、大変に美しい。3時頃、ベッドの所で絵を描いていると、サカイ君が来た。忙しかったが、やっと、少し落ち着いて来た。自転車で自宅から走って来たと言うので、ビックリ。4Fの廊下で昔の凌雲高校の教え子だったナースさん(西山さん)に会ったよ、世間は狭いなと言った。4時からのリハビリ中にナヨロ教会の伊藤さんが来てくれた。

2010年5月20日 サクラ散る 歩行上達
 今まで歩行の時、左足は伸ばしたまま振り子のように振って前に出して歩いていた。この時、どうしても(ぶん回し歩き)左腰を上げないと左足が前に出なかった。この動作は、左腰にムリがかかり、腰が痛くなり、長い距離を歩く事が不可能であった。昨日の4時~5時に受けた熊谷先生のリハビリの時に左足の正しい運び方がやっと少し出来るようになったのだ。脳(体)に覚え込ませる事は非常に大変なのだ。リハビリを開始3ヶ月目にしてやっと出来るようになった。
今日、朝食の前に、昨日、学んだ左足の使い方を思い出しながらやると、左足が上り左腰を上げず、かなり正常に近い歩行ができた。今まで、1階を一周すると腰が痛くなって休まなければならなかった。それが今朝は、連続で3周(360m)しても疲れず、腰も痛くならなかった。私にとって、記念すべき出来事であった。嬉しかった!

2010年5月21日 ハレ 血圧130~73  体温36.7℃
 久しぶりに積乱運を見た。夏を思わせる陽気(24℃)だ。「アルファマの灯」を描いている。

2010年5月24日(月)くもり 体重65.6㎏
 10時頃、長野から姉がレンタカーで見舞いに来てくれた。そのあと姉は、旭川空港へ名古屋から2時に到着する妹を迎えに行った。3時頃に姉が妹を連れて再び来てくれた。相変わらず姉妹は元気だ。旭川駅前のワシントンホテルに宿をとっていると言う。私の部屋も予約してくれた。とにかく、嬉しかった。ホテルのレストランで夕食、久しぶりにビールを飲んだ。

2010年5月25日 雨
  花が美しい。緑があざやか、シラカバのエメラルドグリーンは目がさめる程すばらしい。姉はレンタカーのハンドルをにぎり運転しながら感嘆していた。車は国道40号を北上していた。病院を10時頃出発した。妹も一緒だ。途中、ケンブチ道の駅で買物したりして、下川には午後1時頃到着した。雨は小雨でたいした事はなく、スモモの木の下の犬小屋につながれたジュディーが嬉しそうに吠えていた。
下川の家に戻ったのは、3ヶ月と2週間ぶりで、とても懐かしかった。客が一組来て入口の左側の席にいた。私達は奥の間の大テーブルに座った。店の中、センスが良く、意外と寒く、ストーブが炊かれていた。(薪)水仙の花が窓際にいっぱい咲いていた。牧草も伸びて緑を増していた。フミちゃんも元気そうだった。ジュディーはレストランの中でもおとなしくしていた。
だいぶ、落ち着いて来たようだ。私は2階に行き、ジーンズとシャツを持って来てカバンに入れた。信じられなかったが自力で2階に上がれた。昼食にカレーを食べた。とてもおいしかったのでびっくり。客が帰ってから、4人で色々な事を話した。これから先の身のふり方も話し合った。フミちゃんは今の仕事にあきたし、これ以上出来ないのでやめて介護の仕事を始めると言う。公住(町営住宅)が当ったので6月からそこに住む予定とわかった。私は私で、彼女の方針がわかったので、自分の方針もほぼ決める事が出来た。私は不自由だが「モレーナ」を続ける事にした。最初は大変だが、そのうちうまくやれるようになるだろう。工夫と努力によって、この難局を乗り切るのだ。
姉達は私の身を案じ、傷心をなぐさめてくれた。その優しさが嬉しかった。妹は私のツメを切ってくれた。「天は自ら助くる者を助く」と言うではないか。あくまで自立し、自ら進んで人に甘えてはならないのだ。
夕方にフミちゃんに見送られ、下川から旭川に向った。夜、8時に駅前のワシントンホテルに無事到着、部屋に荷物を置き、姉達を一緒にホテルの中の料亭で夕食した。海鮮料理を堪能した。私はノンアルコール・ビールを飲んだ。姉達が全部おごってくれた。9時半、部屋に引き上げた。フロに入りたかったが、浴槽が深すぎて1人ではムリとわかり、あきらめた。眠剤を飲み、10時半頃ベッドに入った。一日の疲れでクタクタだった。

2010年5月26日 くもり
 ワシントンホテルのカフェでバイキングスタイルの豪華な朝食をとった。10時にチェックアウト姉達は買物に出かけた。私はホテルのカフェで紅茶を飲みながら荷物の番をした、1時間くらいで、山のような買物をかかえて姉達が戻って来た。11時にレンタカーでホテルを出発、旭川リハビリ病院へ向う。12時に到着、そこで姉と妹と別れた。姉は妹を空港に送ったあと、動物園を見て夕方、5時のフライトで帰る。姉達が来てくれた事は私にとって短いが忘れがたい思い出になるだろう。

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