隠れ家的レストランモレーナのインドカレーと世界を放浪したマスターの旅

脳梗塞闘病記

脳梗塞闘病記 8

2010年6月6日(日)ハレ
  病院ではテレフォンカードが役に立つものである。  日曜日は、リハビリもなく、みんなヒマをもてあましている。でも私は趣味が多いおかげで、ヒマをもてあます事はしないですんでいる。私は絵を描いたり、書き物をしたり、マンガや啄木の詩を読んだり、自主トレーニングしたり、洗濯(コインランドリーで)したり、日曜日もけっこう忙しい。旭川はお祭りが行われている。精霊祭り(旭川護国神社)の大祭は必ず雨がふる。初日はやはり雨がふった。兵士の涙と言われている。

2010年6月7日(月) ハレ 体重65.2㎏
 セミの声を聴いた。初夏である。あの冬の重苦しい日々は雪と一緒に消えた。ぬぐわれた大地は緑と花に満ちている。風が吹くとシラカバの葉が一斉に騒ぎ立てる。病室の窓から見ると養老院の向こうに青田が広がる。その上に追いかぶさるように大雪の山々が連なる。私は窓越しにスケッチを続ける。ここに来た頃は、一面に野も山も雪におおわれていたが、その雪もすっかりとけて、雪渓を残して消えた。同室の患者もすっかり入れ変わって、この部屋では私が1番古い。私だけでなく、皆それぞれに病気が彼らの人生に大きな影響と変化を及ぼし、それぞれに悩みをかかえている。
 「これからどうやって生きて行くのか?」1番若いT君は介護師の資格をとって2日目に倒れた。彼は私と身長は変わらぬが、体重が100㎏だった。「介護する側が介護される側になっちゃたよ。」と彼はくったくなく笑っていた。近くのカムイに家があり、両親がよくやって来る。母親は最初の頃は毎日のようにやって来た。息子がだいぶ回復し、杖で歩けるまでになって安心したのか、最近は毎日来る事はなくなった。T君は独身、のん気な性格、文庫本をいつも読んでいる。体重は現在80㎏に減っている。  Iさんは定年まで3~4年と言う、K町職員。毎日、奥さんがバスでやって来る。午前中に来て午後のバスで帰る。仲睦まじい夫婦で、うらやましくなる。退院寸前に洗面所(ここの病院)で倒れ、日赤に救急車で送られた。脳水症の併発だった。日赤でシャント手術(脳から水をぬく)を受けたあと、リハビリ病院に戻って来た。今週中には退院するようだ。しかし、体が不自由になって、前のようには働けないので、職場復帰で悩んでいる。
 前、この部屋にいたXさんも電気店に勤めていたが、退院後やめた。(60才)「子供もいないし、女房だけだから、年金をもらえるようになるまで、貯金でなんとか食いつなぐよ。」と言っていた。
 入口のベッドに最近入ったWさんは調理師(そば屋)である。62才と言うが体力もあり若い、50代にしか見えない。頭はツルツルに刈り上げて、精力的に見える。「私は士別の百姓のせがれで、ガキの時から体を使って来たし、一度も病気した事もクスリを飲んだ事もなかったです。」と言う 。
お酒が好きで、「最初にビールの大瓶を1本飲んでそれから200ccのコップでウィスキーを2杯(ストレートで)飲む、それからワインを何本か飲みます。」大変な呑んべえである。「酒も肉も大好きで、今まで病気なんかした事がないのに、ほんとショックです。こんな体になっちまって、前の仕事に戻れるか、どうかもわからないし・・・」奥さんも交通事故で入院中なので頭を抱えている。重なる不幸、それらはいつやって来るかわからない。1度も病気をした事もなかっただけに、ショックは大きいようだ。
Yさん(71)は他の部屋の人だが1階で歩行練習中によく会う。滝ノ上で生まれ育ったと言う。東京の大学を出て、役所勤め、旭川に来て、家は病院のすぐ近くらしい。彼は静かで紳士然とした人物だ。趣味は社交ダンスと囲碁だと言う。旭川には岡崎と言う有名なダンスの先生がいると教えてくれた。私は習おうにも、杖で歩いている今の状態ではムリなので、ガッカリした。夢はタンゴを上手の踊れる事だが・・・「今日は日帰りでカグラの家に帰ってゆっくりして来るよ。」と嬉しそうだった。彼の退院の日は近い。

2010年6月9日 ハレ 発病から4ヶ月目
 私には10年にも感じられる時間だった。経済的なこと、仕事や家庭内の問題がなければ、もっと気がラクだったろう。つらかったけど、人間としては成長したかも?Xさんみたいに(仕事)会社を辞めて、1日中家にゴロゴロしていると、奥さんは1日3度食事を作らなければならないし、今まで家に遊びに来ていた近所の女友達も遠慮して来なくなってしまうし、ヒルネも出来ないから大変だ。それで家庭がうまく行かなくなってしまう例も多いらしい。
Wさんみたいに趣味のある人はよく外出するから意外とうまく行っている。年金や財産で経済的に困らない人は退院してもやって行けるが、そうじゃない人は、退院後はたちまち困ってしまう。私やWさんもそっちのほうだ。Wさんは先の事を考えると眠れない。「女房の逆襲が始まった。」と言う。

2010年6月11日(金)ハレ
 水彩による風景画にとりかかる。(リハビリ病院5階からの)「ラ・パロマの町」の下絵を7割完成した。リハビリは進んでいる。順調に回復している。伊豆の田中さんより手紙が届いた。相変わらず、哲学的でわけのわからん事ばかりの内容だが、意気さかんで田中さんらしい。午後のリハビリに熊谷先生が私の左足が、ヒザからあがったのを発見した。今まで、左足はヒザがあがらないため、引きずるようにして歩いていた。熊谷先生は「引きずらなくても歩けるかもしれない」と言って装具なしで私を歩かせた。驚いた事に歩けた。ヒザが上がるようになった。頭脳が忘れない内にくり返し歩行の練習をやらされた。私の中にフツウに歩けるようになるかもしれないと言う希望が生まれた。もし、そうなったら、どんなにか素晴らしい事だろう。なにか、両棲類から2足歩行動物に進化したような気分だ。しかし次に日になると出来なくなっていて、ガッカリだった。それでもリハビリを頑張れば良くなって行くことは確かだ。

2010年6月12日(土)ハレ
  スケッチ(旭川平野)に色をつけた。この病院に来て間もない頃に同じアングル(5階展望室)から描いた絵と比べると現在の絵はずいぶん違う。心を反映しているようだ。雪におおわれた重苦しく、寒々とした風景が緑のパッチワークのような水田風景に一変している。「ラ・パロマの町」の下絵の構成を始めた。
 土曜は、リハビリは午前中(11:00~12:00)のみで午後はフリーだ。今日は1階の回廊を歩いて、まだ休み休みだが、階段を登りおり(自主トレ)した。トータルで10周(120m×10)あとは絵を描いたり、ホットシャワーを浴びて痛くなった筋肉のコリをほぐしたりした。介護なしだから服を脱いだり、着たりするのがまだすごく大変だ。明け方は、筋肉がつっぱって左の手足が痛む。それで目がさめてしまう。足がケイレンすることもある。そう言う時は、マッサージとかフロには入れればラクになるのだが、ここではムリだ。それでも起きて、洗面所に行ったり、お茶を飲んだりしているとおさまる。完全に目がさめてしまえば、そう言う事は起こらないがアクビをしたりすると、同じ現象が起きる。
   夜8時頃、(となりの医大の裏の方)花火大会があって、病室の窓からよく見えた。患者達は大喜びだった。同室のT君の話では、今日は医大の学園祭らしい。
  黒一色の空に次々に咲く大輪の花。私は病室の窓から花火を眺めながら遠く過ぎ去った青春時代を思い出していた。19の夏も私は病室から空を眺めていた。(東京)小さな飛行機が5機飛んで来て、それぞれが空中に大きな輪を描いた。その5つの大きな輪が完成すると、5輪のマークとなった。東京オリンピックの開催を告げる花火がポンポンを鳴り、病院(北里大学附属病院、結核病棟)の屋上に集まった患者達の口から歓声があがった。あれから50年近く年月が流れ、脳梗塞で私は旭川リハビリテーション病院に入っている。発病してもう4ヶ月になる。
 私はよほど病院と縁があるらしく、数えてみると入院は内地(東京)で2回、北海道に来てから5回している。東京は結核(北里大附属)、左足骨折(目黒救急病院)で入院、北海道はジの手術(武田病院・旭川)左肩のケガ(下川病院)、心臓カテーテル(ナヨロ市立)人間ドッグ(サッポロ北ゆう病院)そして今回のラクナ脳梗塞(旭川リハビリテーション病院)と言うわけだ。入院なんて、お金と時間を費やして苦しくつらいだけだと思われているけど、病気をすることで学ぶ事も多い。
私は19から2年間、結核で入院生活をしたが、その時に、ヘッセやカミュの小説に出会い、また絵とギターを独学した。以来退屈をもてあます入院生活は私にとって、絵を描いたり、文学を読んだり、エッセイを書いたり、思考をしたり、キャンピングカーのデザインをやったり、クラシックやオールディーズを聴いたり、楽器を演奏したりする、豊かな時間を与えてくれるものとなった。入院生活よりは自然の中での生活の方がずっと好きだが、他の患者達のようにテレビづけになったり、無聊(ぶりょう)に苦しむ事なく過ごせる。無為とアンニュイは真ワタのように貴賤に関係なく人を苦しめる。人生のはかなさを知り、人生をうたかたのアワの如きものと思えば、一瞬、一瞬を精一杯生きようと言う気持になれる。私はこれを東洋思想から学んだ。思いあがりこそ恥ずべき事、大きな罪だ。見苦しくもある。

2010年6月13日 夜暑い室内28℃
 今日はとても暑かった。Yさんはカゼを引いて調子悪そうだ。退院間近なのに・・。Wさん(62才調理師)は「仕事も出来んくなったし、帰る所もなし困った」と頭をかかえていたが、彼の奥さんが昨日、車にハネられて、足を折って日赤に入院した。彼は「こうゆう時はこうなるのか」と笑うしかなかった。悪い事は重なる、本当に気の毒だと思う。「同病相憐れむ」とはよく言ったものだ。「なるようにしか、ならんよ」「生きていれば、そのうち良い事もあるさ」が私のセリフになった。
30年前に左足の骨を折って目黒不動の近くのダウンタウンの救急病院に入院していた。その時に同じ部屋のテキ屋のオジさんが「ナーニ、どーって事ねえやな。」といつも言っていたのを思い出す。院長が偉そうな顔して医師やナースさんをゾロゾロ引き連れて回診で回る時も、テレビで政治家がエラそうな事を言っている時も、手術に行く時も、彼はそのセリフを使いニヤリと笑った。どこかで開き直るしかない。でなきゃ死ぬしかない。ハムレットのセリフじゃないが「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」人間がすごいと思うのは、ヘコたれないで、生きている姿を見る時である。
私の知っているシンちゃん(55才栗沢の施設にいる)は、小児マヒで体が不自由であるが、口で絵筆をくわえて、絵を描くようになった。評判になり個展も行うまでになった。しかし、歯がダメになって(すり減って)出来なくなった。そのあと、彼は足の指を使って、パソコンを操作するようになり、インターネット、メールを始めた。彼の世界は広がり、色々な活動をインターネットをフルに利用して始めた講演会では、講演の内容を自分でプリントアウトしたものを、あらかじめ来客に配り、たどたどしい言葉で講演するようになった。これがなかなかイイのだと言う。彼の行動は人々に希望と勇気を与えている。
 私の知っているタカヤと言うフォーク・シンガーは足が不自由なうえにC型肝炎で体の具合が悪い。一時はダメかと思われたが、めげずに活動を続けている。最近は戦時中、シュマリナイ湖のダム建設で強制連行され、タコ部屋に入れられて強制労働させられた朝鮮人の人権問題を訴える活動をやっている。最近になってこれは新聞、テレビなどのマスコミにも取り上げられている。彼は民放のディスク、ジョッキーもやっていると言う話だ。

2010年6月14日(月) 血圧126~70  体重66.5㎏  29.5℃(外気温)

2010年6月15日(火)
 午後に赤い旧式のハーレー(ハンドレバーシフト、ハンドサイドブレーキ1940年製)の青年が訪ねて来た。木彫りの修行で作ったという木製のボールを持って来てくれた。前の年、アイベツの絵画10人展の時に会った若者でフジトさんの弟子である。フジトさんは内地で個展(アイヌ彫り)をやるので旅に出たと言う。青年はマサイや田村君と田植えのアルバイトをして、それが終ったので、今日はこれからガラス工芸家のヤッチの所へ行き、明日にはしばらくぶりで家に帰ると言った。家は石狩の山の中の一軒家に1人で住んでいる。もうずっと帰ってないから、畑も草が伸び放題になっているだろうと笑っていた。彼は正方形の木を削って作ったと言う玉をリハビリ用にと言って私にくれた。玉を手で削って作る事は非常にむずかしい。

2010年6月16日(水)くもり、雨  血圧118~60  体温35.9℃
 最近は左足に重心をかける自主トレを始めた。それと戸外を杖で歩く自主トレも始めた。これはかなりキツイ、病院の花園のプロムナード、病院の周囲を歩くが凹凸があり、坂あり、芝生ありだから院内を歩くのとは、勝手がちがう。(腰が痛くなる)でも戸外はやはり気持が良い。ここの花園はとても美しく快い。
昼にアガぺさん夫婦が来た。ハーゲン・ダッツのアイスクリームをごちそうになった。とても、うまかった。母さんはあのあと検査も問題なしでピンピンしていた。畑仕事で忙しかったと言う。父さんはアカシアの蜜を採るためミツバチを移動したと言う。2人とも陽に焼け元気そうだった。私達は分蜂の話をした。(今年は流密が悪く不調)  あとでリハビリの先生にその事を話たら「クリイワさんは友達がたくさんいて、良いですね。他の患者さんは見舞い客と言っても、ほとんど家族とか、仕事関係の人ばかりですよ。」と言われた。
 日赤に行ったO先生にも同じ事を言われたのを思い出す。私には20代の若者から自分より年長まで友人がたくさんいる。アーティストや旅の仲間である。彼らは遠路をいとわず何度も見舞いに来てくれた。それは利害をはなれた関係で結ばれた友情のようなものが、自分と彼らの間にあったからだし、それは本当に幸せな、大切なものだと思う。

2010年6月17日 くもり、雨 血圧124~71
 めずらしく気温が低い。作業リハビリでポスターを作ったり、ソリティアと言うゲームをやったりした。左手の指を使用、思うように動かないから、とても大変だ。どうしても肩や首に力が入り、あとで筋肉がバンバンに張って眠れなくなったりする。脳梗塞の後遺症だと言う。指は、これでも同程度の他の患者に比べると私は回復が早く、器用だと言われた。3時にシャワー入浴、筋肉をあたためてやる。
4時頃、杉田さんと礼子さんが来た。談話室でカフェ・ラテを飲む。車検のために旭川に来たと言う。杉田さんも陽に焼けて元気そう、小山君はカノヤに行っているらしい。(草刈り)話しているうちに、ヒロ子さんとミチが来た。ヒロ子さんは例のガン検診だ。ミチは昨夜、モレーナに泊った。フミちゃんはあまり元気がなかったと言うので気になった。今夜はミチの所にヒロ子さんとサカイ君が泊ってパーティーをするのだと言う。一緒に行けなくて残念、早く出たい!

2010年6月18日(金)  Yさん退院、HさんQさん(電気屋)、Zさん(左官屋)はもう退院していない。O先生は再び脳梗塞をおこして、日赤に戻った。私もKさんも今は古株だ。私の前のベッドはIさんが出たあと、まだ空っぽだ。

2010年6月19日(土)暑い 最近は朝食前(8時)に病院の庭のプロムナードを杖歩行で自主トレーニングするようになった。今朝も2~3周した。院内と違ってハードだがガンバって歩いていると、足の強化と体力をつけるのに良いのがわかる。

PAGE TOP