1 旅のはじまり
2002年2月14日
キングクロスはパンクな若者やファンキーな芸術家のそして世界を流れ歩く旅人の街とゆう感じがする。アジアンフードの店が多い。タイフード、韓国料理、ベトナム、チャイニーズ、インド、ジャパニーズスシの店が軒を連ねる。昼間からドラッグで道ばたで叫びラリってる若者達もいる。噴水公園やアンダーグランドの周辺は健全なシドニーの中ではちょっと風変わりないかがわしい地区だ。
私はキングス・クロスに吸い寄せられるようにして、やって来たのだが、はじめての土地なので、スンナリと来れたわけじゃなかった。
「地球を歩く」をチェックし、空港の外を歩き回ってやっとエアポートエキスプレスNo.350のバスを見つけた時は汗だくだった。
記念に、バス停の椅子に腰掛けてバスを待っている姿を近くにいた人にたのんでカメラで撮ってもらった。こうゆう写真、なにげない写真があとで大切な写真の一枚になったりするものなのだ。運転手は朴とつで親切ないかにもオージーとゆう感じで俳優のアーネスト・ボーグナインそっくりだった。
空港からシティまで10kmくらいだ。シティで大半の客がおりてしまい、キングスクロスでおりたのは私一人だった。運転手は私が行こうとしているセントラルバックパッカーズのホテルの近く(オウエルストリート.16)でおろしてくれ、道を教えてくれた。
歩いてゆく途中、バックパッカーズと呼ばれる安ホテルがいっぱいあり、途中のよさそうなホテルに入ってみた。周囲には気軽に入れそうな、カフェや小さなレストラン、アジアンフードの店がいっぱいあり、バックパッカーや住みついてる芸術家やらジャンキーやらフーテンやら娼婦が昼間っからゴロゴロしていた。
歩道に出した、店のテーブルで皆ゆっくりしていた。見たところオカマにレズ、それにヒッピー、健全そうなバックパッカーの集りだ。ホテルは裏通りに面し思ったより静か、昔風のつくりだった。
「シングルルームをさがしてるんですが」と言うと、太った人の良さそうなマダムが部屋をみせてくれた。6畳くらいの広さで、冷蔵庫、洗面所、大きな鏡、椅子と丸テーブル、扇風機、テレビ、それにシングルベッドとタンスがついて一泊45A$(3200円)位だった。部屋は清潔だった。トイレとシャワーは共同だ。バックパッカーズはどこでもそうだ。(当時1オーストラリアドルは約70円)
とりあえずマダムが見せてくれた部屋が気に入ったので泊る事にし金を払った。
それにしても朝から何も食べてないのでおなかがすいたので、外出した。ホテルの近くのタイヌードルの店でメシを食った。
冒険旅行で注意すべきこと
外出する時はパスポートとT・Cとチケット、大きな現金は専用の小さなケースに入れて(首からつるしてTシャツの内側に隠すとゆう方法は、ボリビアやケニヤ、モロッコ等では通用しない)パンツの内側に細いバンドで固定する。私はこの方法で、この30年あまりにわたる旅を無事やりすごしてきた。
もちろんスリには何回もやられてる。しかし、パンツの内側にあるものまでは彼らは取る事が出来なかった。
ただ、ラ・パスやナイロビのニューマーケットみたいな所では私も十分気をつける。首しめ強盗にあったらパンツの下に隠してても持ってゆかれる。
靴の底に隠して歩いた事もある。もっとも、昔、デリーから南インドのマドラスへゆく長距離列車に乗っていて靴を盗まれた事があった。朝起きて列車のベッドの中で目をさまし、トイレに行こうとしたら靴がなかったのだ。これは私の妻(フミコ)の靴で、私はインドで買ったサンダルだったのでなんともなかった。
そこから2つの事を学んだ。泥棒の多い土地を旅する時は靴を枕にして寝る事。もう一つは盗まれた場合歩けなくなるからビーチサンダルを用意する事である。
このビーチサンダルは安宿とかユースでシャワーを浴びたり室内ではいたり、長期滞在でゴロゴロしてる時に便利だ。ビーチサンダルを使えばその分だけ靴の底が減らずに済む。バックパッカーは歩くのが商売みたいなもんだから、そのくらいの気を使って当り前だ。
無法地帯になってるような街では日中人ごみの中でも強盗におそわれる事がある。
知らない街へ移動する時は、移動する前にその街の事を情報を集めて知っておく事は常識だ。ガイドブックよりも現地を旅している旅行者の情報の方が正確で詳しくタイムリーである。ガイドブックの場合、古い情報が多いし、泥棒宿がフツーの宿として記載されていたりして、被害者が続出なんて事も実際に起きている。
生の情報こそ、もっとも信用できるとゆう事を知っていた方が良い。
パキスタンのラホールは泥棒宿が多いんで昔から有名である。では、そんな所に行かなきゃと思うだろうが、あすこは交通の要所でバックパッカーにはさけて通れない所なのだ。シルクロードを東にゆくにしても西にゆく時も、北から南、南から北へゆく時も必ずあの街に宿をとる事になる。
私も2回行った。一度目は1974年で私が小さなリュックを肩に、ギターを片手に、ロンドンからインドのデリーまでシルクロードを3か月間もかかって旅した時だ。二度目は中国のカシュガルからカラコルム山脈(クンジュラフ峠)をぬけ北部パキスタン、フンザからインドの国境の町アムリッツアーへ向う時だった。(この時もギターを持っていた)
ラホールでやられた旅行者に私は実際何人か会っている。その中の一人の青年にダラムサラで会った(1998年夏)。会った時、彼は体中みみずばれでひどく痒そうだった。一目でベッドバグ(インドのダニ)にやられたものだと分かった。私は彼にダニに対する対処法を教えた。
ダニはベッドの下にひそんでいて、人が寝込んだのを見計らうようにしておそってくる。気がついて電燈を(あればの話だが)つける頃には逃げ去っている。足が短いくせに逃げ足の速いところは私に似ている。
一番よい方法で私がいつもやっているのはこうだ。まずベッドを移動しドアに押し付ける。これは泥棒や強盗対策にもなる。次にベッドのシーツを部屋の中央に広げ、その上で寝るようにする。なぜ中央かとゆうと、ダニは天井付近の暗がりにもひそんでいて壁をつたわっておりてくるからだ。だから壁際に寝ているとやられる。
ダニにやられたその青年はラホールで詐欺師にもやられた話もしてくれた。安穏な旅ではなかったようだ。でもそうゆう旅は若者にはいい薬になるんじゃないかと思う。バカにつけるクスリがあるとしたら、そんな類のもんだろう。
青年はトルコからイランの南側のルートを通ってパキスタンに入りラホールに来た。同じ宿にパキスタン人の親切な紳士が泊まっていて良く食事をおごってくれた。彼はその紳士をすっかり信用してしまった。だから彼が青年の部屋を訪ねてきた時も、うっかり中に入れてしまった。
紳士は冷たいジュースを持ってきてくれた。それは三角のテトラパックだった。ビンの場合は栓をぬいて中にしびれ薬やねむり薬を仕込んで再び栓をしてわからぬようにしてカモにすすめる悪い奴がいる。
しかし、テトラパックはそんな事は出来ないから、安心だ。彼も、そう思って飲んだ。
ところが、そうじゃなかった。実は注射器を使って強力なねむり薬が仕込まれていたのだ。
彼が目をさましたのは次の日だった。もちろん彼の財布も荷物も、そしてあの親切な紳士も消えていた。
とゆうわけだ。
だからと言って、一歩を踏み出さなきゃ旅なんて出来っこない。「細心にして大胆なれ」これが標語だ。じゃなきゃ冒険的な旅なんて無理だ。
財布がいくつあったって、命がいくつあったって足りはしない。
2-1 ネットやガイドブックなしで旅する方法
2002年2月15日 快晴 22℃ 木影にいると快適
昨日、横町で気に入ったカフェを見つけた。親父と気の良さそうな息子と2人でやっている小さな店だ。
その横町は車は進入できず、プラタナスの木影のテーブルの前に腰をおろしていると、まるで海底の昆布の森の中にいるみたいに落ち着く。それにここのコーヒーは大変においしく、音楽は70年代のまんま。私の宿のすぐ裏にあるのもいい。
昨夜は久しぶりにぐっすり眠って、体も楽になった。
11時に起きて、まっすぐにこの店に来て、木影の小さなテーブルの前に腰かけ、カプチーノをすすりつつ、この日記を書いている。時差がない(一時間)とゆうのは楽だ。
私のとなりの席のでっかい男4人は、みんな髭にロングヘアー。一人は太ももみたいにぶっとい腕にドハデな刺青をのたくらせている。昔のヒッピーが何の変化もなく年をくったとゆう感じで気の良い奴らだ。
今日もイーグルスの曲が流れあの日と変わらない。
あの日とは1974年の秋の満ち足りたあの日である。
カトマンズに私は居た。この男たちもあのパイショップにいたかもしれないし、あの店に行った事があるのかもしれないと思うと何となく親しみを感じた。
昨夜はホテルの近くから、地下鉄に乗りシティーセントラルまでゆき、そこから歩いてチャイナ・タウンに行ってみた。
安全のために、いつものように作業ズボンにTシャツとゆうスタイルで、デイパックは持たず、スーパーのビニール袋をさげて歩いた。
デイパックなど「私は旅行者です」と語っているようなもんだ。小奇麗なかっこは「私はお金もってるんです」と語ってるようなものだ。
私のカッコ、私の何処の国の人間だかわからぬ得体の知れぬ顔つき、そして日本人みたいにセカセカ歩かず、のんびり、しかし油断なく歩くのをみて敵は「ああ、こりゃダメだ」と思うらしい。
私は淋しい通りは決して歩かない。歩いて通りが淋しくなったと感じたら、すぐにひき返し人ゴミの中心の方に移動する。夜は遅くなったらタクシーでホテルに帰る。ただし、タクシーは白タクか公的なタクシーかを良く見きわめてから乗る。
ラ・パスやアフリカの一部では白タクが途中で強盗に早変りなんて事が起る。実際南米ペルー南部の街ラキアカでそうゆう目に遭った旅行者に会っている。そうゆう事があるから、スリルがあって旅もハラハラドキドキで新鮮なのだ。
しかし、旅人も年季が入り、私のように古参になってくると、スリルをスリルとも感じなくなり、ハトバスにでものってローマ見物なんてものがけっこう面白かったりする。しかし、すぐにアンニュイになってしまう。
やはり、何か大きな目的、あるいは大きな苦悩、苦労、悲しみを乗りこえようとする旅は苦しいが、旅の昇化作用みたいなものがあると思う。旅の中で何かを勉強したり学ぶ、あるいは発見とゆう情熱につき動かされる遠大な旅もそれなりにすばらしいだろう。
ガイドブックを片手に安全な土地だけを安全に旅しようなんて事を若い人は若いうちから考えるべきでない。チャレンジ精神が大切だ…と偉そうな事を言いつつ私は日本から「地球を歩く・オーストラリア」とゆうぶ厚く情報のギッシリつまったガイドブックを持ってきた。
でも昨日、歩いてる途中で落としたらしく失ってしまった。だが、今は、失くなってせいせいした気分である。いっそガイドブックなんて持たぬほうが、旅が楽しくなるように思う。あんなもの重たくて荷物になるだけだ。
わからぬ事だらけだから、他人に聴かざるをえない。そこに他者とのコミュニケーションが生まれ、思いがけぬ様々なハプニングも生まれてきて旅が楽しくなるのだ。聴いて歩かなきゃなんないから自然と言葉も覚える。
逆にガイドブックやインターネットの情報だけにたよっていたら、それ以外の他者とのコミュニケートは生れず、まるでカプセルに包まれた状態で旅する事になりかねない。引きこもり者の旅だ。私はそんな旅行者に会った事もあるがその人は無表情だった。
以前に何度かガイドブックなしで旅した経験がある。思った程困らないものなのだ。スムースに旅は出来ず、ギクシャクするし、失敗も多いが、それも旅だと思う。
ポルトガル、スペインはガイドブックなしで、現地でロードマップ(ミシュラン社)だけ買い求め、それを見て半年くらい旅した。
ロンドンからシルクロードを経てインドのデリーまで(3ヶ月かかった)の旅の時も、ガイドブック無し、高校で使っていた教科書の地図帳を頼りに旅した。あんなものでもけっこう役に立つのだ。
あの教科書の「高等地図」なるものは今や古典であるが、なかなかにすぐれものであると私は思う。世界を旅するのに(日本も含め)あれ一冊で十分だ。
ただ登山とか探検ともなればもっと正確で詳しいものが必要なのは当然である。地図が成功の鍵を握っていると言っても過言ではない。
「宝探し」の旅ともなれば地図がなきゃはじまらないとゆうわけだ。
でも世の中には目の見えない旅行者とゆうのもいるのだ、上には上がある。その人は耳と口以外、それ以上の感覚で旅しているのだろう。なんてすばらしい事だろうか……
旅行者にはグッズにこだわる人も多いが、私はシルクロードの真中で、フロシキとサンダルばきとゆうスタイルで何年も世界中を旅してる人に会った事がる。その人は本しか持ってなかったのだ。おまけに日本語しかしゃべれなかった。やはり、上には上がいる。
実に世の中は広く、摩訶不思議な人間がたんといるものだ。