2-2 見知らぬ街を歩く
コーヒーを飲んだあと、地下鉄でエアポートに行ってみた。駅員に聴いたり、通行人に教えてもらいながら切符を買い途中で2回乗りかえて50分後にはたどり着いていた。
切符を買うには自販機しかなくボタンもどこをどう押したらいいのかわからぬまるで判じものだ。
いくら調べたって分かるもんじゃない。人に聞くに限る。その時たまたま聞いた人がタイソンみたいに大きく恐ろしげな男だったが、私の行き先を聞くと、私の広げた手の平から数種類のコインを選び販売機に放り込み、いくつかのボタンを押し、切符が出てくると私に渡し、私がサンキューと言うと、ニカッと笑って去っていった。人は見かけによらぬものである。
彼のボタン操作を見て、だいたいやり方がわかったので次からは一人で買えるようになった。
駅のスタンドに置いてあった無料の路線図を広げて見ながら地下鉄を何回か乗るうちに、大まかな地名と路線も頭に入った。昨日も一人でチャイナタウンまで地下鉄を利用して行ったのだ。
ドメスティック・エアポートの地下駅でおりて、エスカレーターで地上に出ると、そこは空港のロビーだった。
カンタス航空のチケットカウンターに行き、ピーターに頼んだホバート行のEチケットがリザーブされてるかどうか確かめた。係の女性は、コンピューターで調べて、私のパスポートを見て、「大丈夫、明日の7:55分発ホバート行の便のリストに貴方の名前が入ってますよ」と親切に教えてくれた。これで一安心だ。
私はコンピューター世代以前の人間だからEチケットとゆうI・T革命の申し子みたいな、実体のないチケットには一抹の不安を感じてしまう。
オーストラリアに来てから、食事はもっぱらホテルの近くの横町を入った所にあるタイフードの食堂ですましている。なにしろ、ここのタイ料理はうまくて安い。
トム・ヤム・クンが5.5A$(当時380円)、ポークと野菜のヌードルスープが7.5A$(550円)、チキンとカシューナッツを甘辛く炒めライスの上にかけた料理が7.5A$(550円)、ライスが2A$であった。ボリュームがあるから日本よりは安い。一汁一菜で十分な栄養がとれる内容だ。
チャイナタウンで酢豚を食べたがひどかった。たまたま入った店が悪かったのだが、中華料理は食べあきてる私にしてみたら未知のタイ料理はすばらしい。
青いコリアンダーの葉や山椒の葉、名も知らぬ木の皮や根、ニョクマム、いくつものスパイス、そしてナンバンが惜しみなく使われている。スパイシーである。
野菜はスープにしても炒めものにしてもサッと火を通してあるから歯ざわりがシャキシャキしていて彩りも鮮やか、栄養もある。
テーブルには塩、粗びきの赤唐辛子、生の赤いナンバンの入ったビネガー、ニョクマムが必ず置いてあった。
野菜がふんだんに使用され、肉類とのバランスがとれており、中華料理のように油こくない。
私はキングス・クロスのホテルの周辺しか知らないが、とにかくやたらとタイ料理の店がある。ベトナム料理店も多い。スシBAR、インドフード、イタリアンピザの店も多い。そこでは、もちろん、テイク・アウトが出来る。
タイ・フードの店ではそうざいも各種売っている。もちろんホカホカの白いごはんもある。それらを買ってきて、ホテルのキッチン食堂や自分のルームでテレビみて、ビールを飲みながらゆっくり食べるのも楽しい。
「バックパッカー」と呼ばれる宿には必ず自炊出来るキッチンと食事をとるためのスペースがある。料理がキライじゃなきゃ自炊も楽しい。
よその国の市場には、その国の台所が見えて見て歩くだけでも楽しいと思う。そこで食べたいものを買ってきて、好きなように料理して食べる、これも旅の楽しさだと私は思う。受身でないアクティブな旅も楽しいものだ。
ホテルで出されるフルーツの盛り合わせもいいが、皮をむき、細かく刻まれていてはフルーツの実体はわからないだろう。市場や町角のフルーツ店で手にとって見て、はじめて実体がわかるのである。
私達はふだん、実におびただしい実体のないものにかこまれて暮している。旅とは実体を探し、それに触れ歩くとゆう行為でもあると考える事もできる。もちろん、旅はそれだけが旅でなく、もっと多様なものだが。
チャイナ・タウンの中にも英国風のパブやアメリカ風のハンバーガーショップがある。もちろんオージーフードの店もある。そこでアルコールを飲んだり、バーガーで食事する人々を見た。なんでチャイナ・タウンでわざわざそんなものを食べるのかと、私はいささかあきれたが、生れ育った時からの食べている物へのこだわりは私にもある。しかも大ありなのだ。
それ以外のものを食べる事は実は食の冒険行為なのである。冒険を好まぬ人達はチャイナタウンで皆がワイワイと中華料理を囲んでいるのを尻目に、自分達のお国の料理を楽しんでいる。
それでいいのだ。多様性を認めている限り冒険しなきゃいけないとゆう事はない。
3 シドニーからタスマニアにゆく
2002年2月16日 くもり 土曜日
この日記を今、空港で書きはじめた(シドニー)。
靴の底をチェックされたのは初めてだ。アメリカでのテロ(アラブゲリラ、オサム・ビン・ラディンの指令によるニューヨークの貿易センタービルの爆破)の影響が、こんな所にも現れている。私は常に怪しい人間に見えるらしい。
検査官の印象は「仕方なくやっている」とゆう感じでのんびりしたものだ。千歳空港の方がピリピリしていた。もっとも年がら年中ピリピリしているのだが。
オーストラリアの設備は何でも作りが大きい。空港トイレのバカでかさにビックリした。
白人の植民地だが、同じく植民地としてスタートした南米のアルゼンチンやチリとも違う。またアフリカのケニヤとも違う。
ネイティブのアボリジニ(タスマニア人)の姿はたまにしか見ない。それもミックスがほとんど、むしろ、あとから入ってきたアジア人の方が多い。
国語が英語なのは知ってのとおりだ。
バックパッカーの宿が手配してくれたシャトルバスでまっすぐドメスティック・シドニー空港へ来た。まだ早朝だが(6時すぎ)乗客が多くカフェテリヤも開いていた。
時間があるので、カプチーノとクロワッサンで朝食をとった。クロワッサンはパリで食べたクロワッサンの4倍くらいの大きさもあり一個で十分だ。オーストラリアにいる事を再び感じた。ほどなく搭乗が始まり、私を乗せた小さな旅客機は飛び立った。
9時40分にタスマニアのホバート空港に着いた。思ったよりも小さく旭川空港くらいで、のんびりしたムードが漂っていた。
約束どおりピーターとジュディーが迎えに来ていた。2年前に私が肩の怪我で入院していた下川の町立病院で会って以来の対面だった。
空港から車で15分くらいで新しく買って引っ越したばかりとゆう彼らの家に着いた。丘の頂にあり、下の方に谷間と町と海が見えて眺めが良い。
家は緑と花に埋っており、昔風の落ちついた造りの平屋で、すこぶる居心地が良かった。
「6ヶ月かかってやっと見つけた」とジュディーが話してくれた。
素晴らしい眺め、素晴らしい家だ。
夜は戸外でバーベキューをした。
私の他にジュディーの仕事仲間のスーがゲストで来ていた。ピーターとジュディーは英語教師で日本の滞在が長かったし、スーも2、3回日本に仕事で来ている。気を使って、わかりやすい英語でしゃべってくれるので会話していてもわからなくて困るとゆう事はなく、様々な話をした。
いかに会話が上手でも内容がなかったら、誰も相手にしてくれなくなる。私の話は面白いのか、皆はよく笑い、よく聞いてくれた。
会話のコツは相手の話をとことん聞く事、つまり相手から相手が話したい事を引き出してやる事である。自分の話だけを一方的にしたのではつまらない人だと思われる。人の話をまったく聞こうとしない人は会話する資格がないし、だれからも嫌われる。自分の事を話すチャンスがめぐってきた時だけ自分の事を話せばいい。
英語の上手、下手などはさしたる問題ではないのだ。話の内容がつまらないものであったなら、いかに英語が上手でもなんにもならない。英語が下手だから会話できないなんて事はないのだ。
スーはオスカーとゆう犬をつれてきていた。小太りの仲々愛嬌のある犬だった。彼女は「ドリアングレイの肖像」を書いたオスカー・ワイルドが好きで、犬にオスカーとゆう名をつけたと話してくれた。
私がスタインベックの愛読者で彼の書いたアメリカ旅行記「チャーリーとの旅」から自分の犬に「チャーリー」とゆう名をつけたのだとゆうと、話はスタインベックに移りそれからまたチャーリーやオスカーの話になったりして尽きる事がなかった。
ジュディーが自転車旅行のための私の装備目録を見た時の話をした。
その中にfrease jacket(フリースジャケット)とゆうのがあった。自分ではフリースのつもりで書いたのだが、freaseとは即ちノミを意味するらしく、皆は大笑いした。正しくはfleece jacketとの事である。
私達がなにげなく使っているライスとゆう言葉が、発音が悪いとごはんでなくシラミとゆう意味になるのと同じだ。
4 ピーターの家で自転車旅行の準備を始める
2002年2月18日 晴れ 24℃
ホバートは乾燥してないのですごしやすい。
でも、出発前と旅行中の疲労が重ってついに風邪をひいてしまった。
11時頃にジュディーが街に車で連れていってくれた。バックパッカー・カードとフィッシング・パミッションを観光オフィスに行って手に入れる事が出来た。
そのあと、彼女の案内でアウトドア・ショップと釣具店に行った。さすがにオーストラリアだけあって品ぞろえも豊富で珍しいものや、欲しくなるものがたくさんあった。
私はそこで自転車旅行に必要なスリーピングバッグやテントの中にしくロールマット、釣り用のルアーと錘と浮きなどを買った。
どこの店に行っても嫌な感じのする店員はいなかった。観光オフィスの係員もみなとても親切であった。
少し元気になったので夕食は私がつくった。ガドガド(インドネシア料理)とズッキーニのオムレツを作った。それにごはんを炊いた。食卓にはキムチも並んだ。ピーナツソースも作った。ある材料と道具を使い、なんとかうまく作ることが出来た。
ジュディーとピーターは大へんよろこんでくれた。
広くて立派で機能的なキッチンで仕事がしやすかった。
食卓を囲んで皆で食事を楽しんでいると、味と香り味覚の世界には言葉以上のものがあると思えた。言葉は互いに解らなくても味はわかるのである。